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ー 科学と技術で産業を考える ー

優れたことづくり例

技術者のバトン

赤城フーズ株式会社 遠山昌子 社長/ インタビュー

2023 年 06 月 28 日

赤城フーズ株式会社
代表取締役社長
遠山 昌子

生年月日 :1979 年9月生まれ
出身地 : 群馬県
入社日 : 2005 年4月
社長就任日 : 2018 年2月
家族構成 : 夫、長女、次女
趣味:子供が参加している部活・クラブの観戦
【団体などの公的な活動の履歴】
全日本漬物協同組合連合会 理事
群馬県漬物工業協同組合 理事
日本漬物産業同友会 副会長
ぐんま うめのわ 広報
一般社団法人前橋物産振興協会 理事長
一般社団法人前橋デザインコミッション 理事
公立大学法人前橋工科大学 理事   ほか


Q.群馬県と梅や梅林のイメージが結びつかないのですが、県内ではどのような位置づけですか。

 「梅」というと紀州・和歌山の「梅干し」が有名で、和歌山では「南高梅」が知られるように梅干し用に黄色く完熟した梅を収穫する産地です。ですがここ群馬は、そんな和歌山と大きく違い、「カリカリ梅」に適した実を青く硬いうちに収穫する青梅の一大産地なのです。群馬では「白加賀」と呼ばれる梅が代表品種で、白加賀は大粒で果肉が厚く梅酒やカリカリ梅への加工に適しています。
 また、白加賀以外の品種の梅も多く育っていて、それらをカリカリ梅に適した時期に農家さんが1粒ずつ手もぎで収穫してくださるので、実が硬く傷がない良質な青梅が手に入ります。
 実は群馬県は、生産量で和歌山県に次いで全国二位の梅の名産地なのです。県西部にある榛名梅林・箕郷梅林・秋間梅林が群馬の三大梅林となっています。そして、弊社が昭和 46 年にカリカリ梅を開発して以降、今でもカリカリ梅を製造するメーカーが群馬に集中しています。「カリカリ梅といえば群馬」をキーワードに、群馬県産梅のブランド力を上げることも大事な取り組みと思っています。
 余談ですが、カリカリ梅は干す工程がありませんので、カリカリ梅を「梅干し」と表現するのは間違いです。

カリカリ梅の前に立つ遠山昌子社長

Q.食品加工の世界は、素材の収穫は天候に影響を受けますし、食べ物なので衛生管理に神経を使います。どのような管理をしていますか。

カリカリ梅の製造風景

 お客様が「安心・安全」に召し上がっていただけるよう、原料の仕入から最終包装まで、幾重ものチェック体制を敷いて製品をつくっています。カリカリ梅のカリカリ感を保つには梅の熟度が重要な為、梅原料の仕入れには、毎年私が現地に赴いて原料チェックをして仕入れています。製造工程においては、原料農産加工物なので1粒1粒形も重さも違いますので、機械だけでの検品は難しく、人の目と手と機械の合わせ検品をしています。また、異物混入を防ぐための白衣の着用やローラー掛け、食中毒を防ぐための手洗いや消毒に手袋の着用等は、食品ならでは製造風景かと思います。
 原料となる梅は、天候の影響を大きく受けます。近年では温暖化で収穫時期が大幅に早まっていて、仕入時期に梅の熟度が進み過ぎてしまわないよう、注視しながら仕入れています。また、ここ数年は雹の被害が多発しており、収穫最盛期に産地の殆どの梅が雹害にあってしまったこともありました。雹が当たった梅も「産地応援企画」として製品にし、お客様に「キズはあっても味は変わらず美味しい梅です」とお伝えして販売したところ、雹害の梅も問題なく受け入れていただくことができました。

Q.赤城フーズさんは「カリカリ梅」の元祖ということですが、どのような経緯で作られましたか。

 4代目となる私の祖父(松永秀雄)が偶然と閃きからカリカリ梅を開発しました。昭和 44 年、群馬の梅が大不作となり、梅漬け用の原料不足に悩まされることになりました。そして苦肉の策として、農家さんが自家用に漬けていた梅を集めたそうです。その中に3樽だけ硬い梅が混じっていたので、「これでは製品にならない」と倉庫に放置していたのですが、翌年になってもその梅は硬いままでした。梅は時間が経てば柔らかくなるはずで、それは当時の常識としては考えられないことだったんです。それをかじって、爽やかな歯ごたえに可能性を見出した4代目は、その硬い梅にヒントを得て、どうして硬いままにできるのかを調べたところ、稲わらの煤で作った灰汁水に漬けると硬くなるという長野で民間伝承されていた方法を聞きつけました。その仕組みを自社の研究室で科学的に分析して、カルシウムが梅の実のペクチンと結合して、組織を融解させないで硬いままでいることを発見したのです。工業的に作るには稲わらの煤というわけにもいかないので、カルシウム液に漬ける方法を昭和 46 年(1971 年)に成功して、第1号となる試作品を完成しました。その年の 11 月に最初の製品の販売にこぎつけ、当時の常識を覆した「カリカリ梅」は瞬く間に完売したそうです。
 梅は農産物ですから収穫期があります。5月末から6月にかけて、丁度、梅雨の季節に重なります。「つゆ」という季節に“梅”の字を使うのは理屈に適っています。入荷した梅はカルシウムで漬けた後、塩水に漬け込み貯蔵します。次にサイズごとに分けながら選別します。そして調味をした後、いろいろな調整を経て包装されて出荷されます。この工程をどのように自動化して生産性をあげるのか、を研究しています。1987 年には従来の研究室を拡充して研究開発室を設置しました。群馬県の夏も大変暑いですが、2009 年には熱中症対策にコンセプトを当てた「熱中カリカリ梅」を開発しました。汗と一緒に塩分が流れ出るのでそれを補完するためのカリカリ梅で、低塩ブームの漬物業界の中で、あえて高塩度のカリカリ梅を作ったことで大ヒットに繋がりました。また、近年では梅で繋がる製品ラインナップを広げており、梅とホワイトチョコレートをコラボした「梅ジェンヌショコラ」などの新商品も開発しています。

梅ジェンヌショコラ

熱中カリカリ梅

Q.130 年の歴史のある企業を引き継ぐ、というのはどのような決断でしたか。

 私は兄2人、妹1人の4人兄弟の3番目の長女なのですが、私が生まれた幼少期には、実家の庭続きに本社の事務所と工場があったのです。ですから物心つく前から生活の一部に、赤城フーズ(当時は赤城漬物工業)の仕事が日常にありました。父(松永恒夫)や祖父に「子供の遊び場じゃない」と叱られながらも、妹と会社に潜入して社員さんに遊んでもらい、時には梅農家さんに連れて行ってもらったり、研究室のお兄さんに遊んでもらったりとか、仕事を見て育ってきました。父や祖父の“背中”ではなく、まさに真正面から仕事を見てきたようなイメージです。「父の会社」ではなく「ウチの会社」という感覚でした。私は覚えていないのですが、小学校の頃の遠足で立ち寄ったドライブインで私がウチの会社の商品をせっせと並べ直していた、と面談のときに担任の先生が母に言っていたそうです。それくらい、「自分のウチの会社」という感覚で育ってきました。
 とはいえ兄が二人いて、兄があとを継ぐということになっていましたし、会社を継ぐことを自分のこととは考えていませんでした。そして小学5年生のときから宝塚が好きになって、好きが嵩じて目指すようになり、中卒から受験し続けました。ありがたいことにラストチャンスの高卒の時に合格できて、音楽学校2年、舞台5年と宝塚生活を過ごしました。
 その間に、兄達が会社を継がないという選択をし、それぞれの道に進んでしまったので、赤城フーズに後継者がいない、という状況になりました。「カリカリ梅」を開発した先々代の祖父は、「俺が育てた会社をどうするんだ。」と、とても心配していたんです。
ちょうどその頃、私が宝塚の舞台に立って5年目のとき、母から連絡がきました。もともと持病があった血管が肥大してきていつ破裂してしまうか判らない、と診断されたとのこと。祖父は私が小学生のときに、大動脈解離になったのですが九死に一生を得て、日常生活は送れていたのですが、その血管の状況が悪くなってしまい、2年後かもしれないし明日かも知れない、という状況になった、と言われました。
 ちょうどその頃、私は宝塚でやりたいと思う役を少しずついただけるようになり、夢だった公演にも選抜メンバーで出演させてもらえた頃でした。
 こうした充実した宝塚生活が送れたのも、家族の応援があったからこそでした。私は、3年連続試験に落ちて、最後の4回目でやっと入れたのですが、その間、家族の応援がなければ受験を続けることはできませんでした。両親はもちろんのこと、本当に祖父母の応援があったからこそです。宝塚が大好きで、4年もかけて入ったくらいですし、宝塚にはずっと長くいるつもりでいました。宝塚にはその組の一番上級生が「組長」という立場になるのですが、その組長さんという存在に憧れていました。組長さんは芸達者で表でも裏でも組を支える存在です。2枚目スターというのではなく、自分は組長さんのような存在になりたい、と思っていました。 “名脇役”と言われる方にすごく憧れていたんです。いつかそんな味のある存在になれたら、と思っていました。
 そんな中で、赤城フーズと宝塚とを天秤にかけました。いま宝塚を辞めた時の後悔と、宝塚に残って会社が無くなったり、祖父が会社を心配したまま亡くなった、というときの後悔と、どちらが後悔するかを考えたんです。そして、宝塚に残り、会社が無くなり祖父が亡くなったら私は絶対に後悔するだろうな、と思いました。そこで、誰に相談したわけでもなく「宝塚を退団して実家を継ぐ」と決めました。
 宝塚も企業ではありますが少し特殊なので、普通の企業に勤めた経験もない訳ですし、全く何も知らない、と言ってもいい状態でした。ですが、やりたくない兄たちを無理やり戻すより、何もできないかもしれないけど「やろう」と思えている私が戻ったほうが、少なからず役に立てるのではないかと考えたのです。それで 2005 年の4月3日に退団して、その月の 21 日には会社に入社していました。25 歳でした。

Q.ご自宅の家業を継がれたわけですが、見知っている家業とはいえ、エンタテイメントの世界から食品メーカーという実業の世界に移り、戸惑いはなかったですか。

 私は女子高から宝塚へと、女性ばかりの世界で育ってきました。漬物業界というのは基本的に男性社会です。赤城フーズも、現場には女性も働いていますが、事務所側、販売管理のほうには女性は少なかったです。仕事のリズムも、宝塚というのは基本的には“夜型”でした。午前中には自由参加のレッスンなどがありますが、正式なお稽古はだいたい午後1時からです。忙しい時には朝晩なく稽古があったりしますが、基本的リズムは夜型です。
 それが赤城フーズは、当時は朝8時 20 分からの始業でしたから生活のリズムがまるで異なりました。朝型リズムに戻すというのも、最初は大変でした。また身体で表現する仕事をやっていたものが、数字で表現する世界になり、まずパソコンで作業するという経験もありませんでした。普通の企業で働いた経験がないので、仕事とはどういうものかが判らない。これは赤城フーズのオリジナルなのか世の中全般がそうなのか、も判断できない。何が正しくて何が正しくないのかも判らなかった。最初の1年は、戸惑いしかありませんでした。
 いま考えれば、父も陰ながらサポートをしてくれていたと思いますが、当時の気持ちとしては、“ほっぽり出された”感が強かった。何かを学ぶのも、教えてもらえるのではなく、多分、これは大事なことだからしっかりと勉強しないといけないな、と自分で探していました。この勉強は必要だなと思って、例えば市とか県でやっている研修会を探して申し込んでみたり、中小企業大学校でやっている講座を見つけて勉強に行かせてくださいと願い出たり、自分で本屋に行って探して来たり、手探りで多分これは必要だろうと思うことを学んでいきました。
 役割としても、一応「企画」という役割は与えられていましたが、特に何をしろと言われたわけではなく、いままでにその部署があったわけでもなく、営業も製造も直販も、とりあえず「やっとおけ」という風に感じていました。朝出社すると「えっと私は今日、何をすればいいんだろう」と考えるような初年度でした。
 しかし気持ちは「会社を何とかしたい。役に立てるようになりたい」と強く思っていましたので、空回りばかりでした。でも自分で決めた道なので後悔はしませんでした。
 いまでこそ社員の皆さんに思いを伝えることの大切さが判りますが、当時は社員の皆さんに、自分の思いを伝えることの大切さも判りませんでした。私が一所懸命にやっているのに、なぜみんなは判ってくれないのだろう、という思いもよぎりました。多分、私がどのような思いで会社に入ってきたのかは、社員には伝わっていなかったのだと思います。後日、「結婚までの腰掛けだろうと思っていた」とも言われたくらいでしたので。
 父が会社に入った時は、取引先で数年修行を積んでから自社に入りましたし、この業界では、後継者と言われている人たちはどこかしらで修業を積んでから会社に入ることが多いと知りました。それを知って、私は何とか早く仕事を覚えなければと飛び込んできましたが、どこかで勉強してから、あるいは修行してからのほうが良かったのか、と迷いも出ました。でも、入ったからには「どこかで修業してきます」と、1年で抜けるわけにもいかないなと…。そんなときに社員さんから「通信教育を使えば働きながらでも学べるよ」と、教えてもらい「あっ、そういうのがあるんだ」と思い、すぐに資料を探しに本屋に行きました。すると科目として「経済」はあったのですが、学びたい「経営」についてはなかなか見つかりませんでした。そんな中で産業能率大学に経営情報コースという「経営」に特化したカリキュラムのコースがあることを発見しました。ちょうど3月、いまから新学期にちょうど間に合う。試験会場も大宮とか近くで受けられる、と判り「これは最高だ」と入学することを即決。2006 年の4月から大学生になりました。
 私は高卒で宝塚音楽学校に入りましたので、大学は一般教養課程からスタートでした。ですから体育とかも受けました。4年間で卒業することを目標にして、結婚や第一子の出産も交えながらも4年間での卒業を目標とし、周囲の協力も得ながら目標通りに卒業することができました。卒業したことで、社員さんたちからも「ああ本気なんだな」という、好意的な空気が伝わってきたように感じました。
 大学ではコミュニケーション論の授業もあって、社員さんとのコミュニケーションの大切さを学ぶことができたのも大きかったです。卒業後、中小企業家同友会に出会い、多くの先輩・同業者の皆さんに教えをいただくようになり、経営者としての第一歩を踏み出すことができました。同友会に入ってから、自分も経営者としてやっとスタートラインに立てたかな、と思っています。

努力されましたね

 努力…というのもおこがましいですが、私にはそれしかなかったんです。宝塚出身という経歴は、宝塚をよく知っている方には評価していただけるのですが、その肩書のせいで軽くみられる、ということも多分にありました。「社長の娘の道楽」的な感じで見られたり「お嬢様商売」と思われたりするのを感じてもいましたので、そうではないということを示すにも、努力するしかなかったです。私の本気を理解していただけるために、いまだに努力する毎日です。
 大学在学中には結婚・出産もありました。主人の実家が東京にあったので、赤ちゃんの長女と一緒に東京に行き、義実家の協力を得ながらスクーリングに参加しました。同友会の経営指針づくりの会には乳飲み子の次女を連れて参加しました。周囲の皆さんの協力に心から感謝しながら、こうと決めたらわき目も振らずに突進するタイプなので、「会社のために」「ひいては家族のために」という想いで突き進んでいきました。
 場合によっては軽く見られてしまうこともありますが、宝塚という世界は簡単には言い表せないくらい厳しい世界でした。なので、根性だけはしっかり鍛えてもらったと自信を持って言えます。それが間違いなく今でも生きていると思います。
 入社して間もない頃、後継者として行き詰っていた時に、宝塚の舞台を観にいきました。舞台は2時間半ありますが、観終わったころには、かつての仲間たちのパワフルな舞台に勇気をもらい、心からの笑顔になりました。明日からと言わずに今から明るい気持ちで「頑張ろう!」と思えるようになったんです。その時、「あぁ、宝塚の仕事ってすごい仕事だったんだ」と実感しました。落ち込んでいる友達を、一晩かけても私は笑顔にしてあげることは出来ないかも知れないけれど、宝塚では2時間半で精いっぱいの舞台を務めることで、お客様に心から笑顔になっていただけたのだと、その力に改めて気がつきました。舞台で踊ったり歌ったりすることで 2,000 人のお客さんを笑顔にできるなんて! 凄い仕事をやっていたんだ、と再認識しました。

カリカリ梅のバリエーション

 その後、私にとって転機となる気づきがありました。現在は行っていないのですが、コロナ前は観光バスのツアーを工場見学と直販店で受け入れていて、お客様がカリカリ梅を試食してくださる姿を直に見ることができました。当社では他社にないような様々な味のカリカリ梅を作っていましたので、試食したお客様が「こんなおいしいカリカリ梅を食べたことがない!」とか「こんな味のカリカリ梅があるんだ!?」と、皆さん笑顔になる姿を間近に見ることができたんです。
 その時に、「私は、カリカリ梅を作ることが仕事ではなく、お客さんを笑顔にすることが仕事なんだ」と気が付きました。それを機会に、よりポジティブに仕事に向き合えられるようになりました。「笑顔づくり」という点で、前の仕事も今の仕事も同じなんだ、と気がついたことは、私の中では大きな気づきでした。それが経営理念づくりにも繋がり、経営理念を「笑顔の伝承~ 200 年企業を目指して」というものにしたのです。やるべきことは宝塚でも漬物屋でもおなじだと思っています。

Q.それでは食品工業としての赤城フーズを経営していくうえで、具体的に気を付けていることをお聞かせください。

 製造業として安全面とか安心して使っていただくことは、食品でもその他の工業でも同じだと思います。しかし食品産業の現実として“賞味期限”というものがあります。これは大きな課題の一つで、機械等の場合とは異なると思います。食品だと、作って2週間経ったら出せない、という制約があったりします。するとひと月にこれだけの仕事がある、としても小分けにして進めないといけない。まとめて作れれば効率が良いのですが、ここで注文を下さるお客様と、その後に販売されるお客様の事情があるので、こちらの希望通りに注文がいただける訳にはいきません。賞味期限という観念に強く縛られる。同じ製造業でも、そういった点も食品というのは凄く難しいなと感じます。
 それと食品の世界は、何か起きた場合にその影響をうける範囲が大きくなると思います。食中毒を出せば、召しあがった人が健康を害してしまう、重大な結果が即時出てしまうのが食品です。安全なモノづくりを一番に考えなければなりません。
 さらに食品に対する世の中の“感度”が急速に上がっています。特に当社のような農産加工物は非常に難しい。一つ一つのものが大きさも違えば管理も異なる。自然界で育ったものには自然に沿った姿がある。機械等の製造品と同じように規格を統一することは難しいですし、現実的ではありません。
 検査工程を設けても、農業製品は自然界のものなので画一的に扱えない。どうしてもやりきれない部分が出てきてしまう。そこは“人と機械の合わせ技”で防いでいくしかない。これが形や大きさが規格化されている工業製品ならばカメラ1台で対応ができるでしょう。機械化できてもなかなか自動化までは行かないのが農産加工品です。ただそれも技術の進化で、AIを使えばいけるんじゃない? 次の時代には可能になるのかな? とも考え、検討を始めています。しかし現状は、まだまだAIでは拾いきれない、人間の力に勝るものはないのが現状です。
 農産物である“梅”を画一的に扱うこと、「ゼロか百」で分けるというのは絶対できない、その間の部分というのはまだまだ「人」なのです。とはいえ、機械と人と、人だけでは防げない部分が沢山あります。例えば「賞味期限」の印字については機械が力を発揮できる部分です。だからお客様の安心・安全のために賞味期限についてはカメラとコンピューターでしっかり管理しています。あと外装の封をする熱シールです。密封されていないと脱酸素剤が利かなくなるので熱シールの貼り付け精度は重要です。そういった画一的なものの検査は機械で正確にすることができます。ですが梅の傷とか、種を抜いた商品の種の有無などは人の力を使わないとダメです。食品でもチョコとか飴のようなものは、型に入れて作るので、ある範囲内の大きさ重さで、形のズレ幅も大きくないものは機械化に馴染むのですが、生ものである農産物は難しいです。人と機械の使い分け、適材適所というのがあるので、よく考えてその使い分けを行っています。

Q.梅には虫が付いたりするのですか。

 カリカリ梅は殆どないと言って問題ありません。なぜなら、青梅で手もぎだからです。梅干で使う完熟梅の場合、熟して自然に落ちたものを網で集めて拾うのですが、その収穫法だと梅にケシキスイという虫が付きやすいそうです。しかしカリカリ梅に使う青梅、梅の木になっている果実を手で摘みとりますから、虫がつく心配はまずありません。カリカリ梅の場合、キズや黒星と言われるものがあったりします。現在は人の目で一粒ずつ検品していますが、検品者の能力に左右される面もあるので、現在、産業技術センターさんとAIの使い方について相談したりしていて、デジタルの力にも期待は大きいです。

Q.130 年の歴史を持つ赤城フーズですが、どのような展開をされてきたかをお聞かせください。

 赤城フーズは、130 年前の 1893 年 11 月に創業しました。東京にあった漬物生産の小田原屋で修業した創業者(関根留吉)が、前橋で、漬物・佃煮・煮豆製造小売業として独立しました。当時の前橋には漬物屋はありませんでした。前橋は、養蚕と絹織物で栄えており、生糸といえば前橋と言われるほどでしたので、その前橋で漬物屋の先駆けとして一花咲かせたいという想いがあったのではないでしょうか。その後、全国に卸売りも行うようになり、戦中には軍隊にも漬物や梅干しを納め、企業として拡大していったようです。
 漬物屋としてビジネスは順調に成長して、福神漬も大ヒットし、1935 年には「赤城漬(あかぎづけ、アカギヅケ)」の商標登録をしていました。

赤城漬の登録商標

 戦後、1950 年(昭和 25 年)6月には「有限会社小田原屋本店」として法人化し、翌年の9月には株式会社に改組しました。1962 年秋には東前橋に工場を建設して、本格的に事業を拡大していきました。翌年には商号を「赤城漬物工業株式会社」に変更しました。1966 年(昭和 41 年)10 月に「第6回農業祭」において「赤城漬」が優秀製品として農林大臣賞を受賞しました。
 戦後、県内の養蚕業が徐々に衰退し、県内の桑畑が、梅畑に入れ替わっていきました。そんな中で 1971 年8月、赤城フーズが世界で初めて「カリカリ梅」を開発し、工業的な製造法に成功したのです。同年 11 月には製品第一号の発売にこぎつけました。カリカリ梅は業界に大旋風を起こし、瞬く間にヒットしました。1984 年には製造技術および新製品(カリカリ梅)の開発の功績により農林水産省食品流通局長賞を受賞しています。
 1993 年 11 月に創業 100 周年記念式典を挙行して、商号を「赤城漬物工業株式会社」から現在の「赤城フーズ株式会社」に変更しました。この社名変更には、漬物だけでなく様々な食品づくりを目指していこうという想いが詰まっていたそうです。私は 2005 年に戻ってきまして、先ほどお話ししたような経験を経て、13 年後の 2018 年2月に6代目の社長として就任しました。社長就任後、品質向上を目指して、工場の食品安全規格「JFS-B規格」の適合証明も取得しました。

Q.いまやらなければならないことは何ですか。

 青梅は、枝になっているときにもぎ取らなければならないので、脚立に乗って手もぎで収穫します。それには危険も伴いますし、手間もかかります。カリカリ梅は、硬い梅を硬いままにする技術ですので、収穫時期も限られます。そんな農家さんのご苦労に応えるには青梅の価値をより多くの人認めてもらわないといけません。産地の縮小を防ぐことは緊急課題です。農家さんが苦労と努力に見合う報酬を得られるようにするには、群馬の梅のブランド力向上が急務です。
 実例として、群馬のカリカリ梅と和歌山の梅を使ったカリカリ梅が並んで販売されていました。価格的にお得なのは群馬の梅の製品でしたが、売れたのは和歌山産のほうだったそうです。本来カリカリ梅としては、原料の品質でも生産量でも群馬県のほうが主のはずなのに、「梅と言えば和歌山」という知名度に負けてしまったのです。それ以降、「カリカリ梅といえば群馬」のブランド化を目指したいと強く思うようになりました。実は群馬県民すら、群馬梅が全国二位だとは知らない人が多いのです。それを変えていきたい。これは自社の力だけでは及ばない話なので、県内の同業他社である5社(村岡食品工業さん、コマックスさん、梅吉さん、大利根漬さん、赤城フーズ)で、「ぐんま うめのわ」を結成しました。水戸は、偕楽園で有名ですが梅の産地ではありません。しかし、偕楽園の梅林が有名なので、梅のイメージが定着しています。群馬にもそれ以上の「カリカリ梅=群馬」のイメージを育てていきたいのです。「群馬の青梅」のブランド力向上の策を「うめのわ」で考えています。展示会に共同出展したり、梅林で開催される“梅まつり”に「うめのわ」として参加しています。幸い現代はSNSなど、私達でも利用できるメディアが数多くあり、それらも活用していきたいと考えています。また、足元を固める意味でも、地元のイベントとの連携も進めています。
 赤城フーズの経営理念の「笑顔の伝承~200 年企業を目指して」は、先の長い話ではなく、今日この日の一歩一歩の積み重ねが大事だと思っています。私で6代目になりますが、200 年になるのは、きっと2代、3代先の話になるでしょう。その時代まで続くように、企業としての土台づくりに勤めていくのが、私の使命だと考えています。

ありがとうございました。

 


赤城フーズ株式会社 会社情報
【沿革】
1893 年 11 月
 前橋市内において漬物・佃煮・煮豆製造小売業として創業
・1935 年3月
 赤城(あかぎ、アカギ)の商標登録を取得
・1950 年6月
 有限会社小田原屋本店を設立
・1951 年9月
 株式会社小田原屋に改組
・1962 年 11 月
 東前橋工場の建設を開始
・1963 年 10 月
 赤城漬物工業株式会社に商号を変更
・1966 年 10 月
 第6回農業祭において「赤城漬」が優秀製品として農林大臣賞を受賞
・1971 年8月
 世界で初めてカリカリ梅を開発し 工業的な製造に成功
・1971 年 11 月
 カリカリ梅第一号製品 発売
・1981 年2月
 食品衛生優良施設として群馬県知事より表彰される
・1984 年 11 月
 製造技術および新製品(カリカリ梅)の開発の功績により、農林水産省食品流通局長賞を受賞
・1987 年3月
 研究室を充実して研究開発室を設置
・1987 年7月
 直販部を設置(東前橋工場内)し工場見学をはじめる
・1987 年9月
 東前橋工場がJAS認定工場となる
・1993 年 11 月
 創業 100 周年記念式典を挙行
 赤城フーズ株式会社に商号を変更
・1998 年1月
 本社の製造部門・営業部門を東前橋工場(上大島84)に集約する
・2001 年8月
 ホームページを開設
・2018 年2月
 食品衛生優良施設として県知事より表彰される
・2018 年2月
 6代目として遠山昌子が代表取締役社長に就任
・2022 年1月
 食品安全規格「JFS-B規格」適合証明取得(カリカリ梅、刻みカリカリ梅)

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