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ー 科学と技術で産業を考える ー

優れたことづくり例

技術者のバトン

株式会社アミイダ 阿久戸洋希 社長/ インタビュー

2023 年 05 月 17 日

株式会社アミイダ
代表取締役
阿久戸 洋希

生年月日 :1972 年8月 11 日生まれ
出身地 : 群馬県
入社日 : 1992 年4月
社長就任日 : 2012 年7月
家族構成 : 妻、息子2人、娘2人
【団体などの公的な活動の履歴】
群馬中小企業家同友会 副代表理事
太田機械金属協同組合青年部 理事


Q.アミイダはどのように創業されましたか。

 1978 年1月 15 日に父・阿久戸忠雄が太田市富沢町で立ち上げました。私が幼稚園の年長組の頃でした。父は父の兄と経営していた建設会社が破綻してしまい、そのとき創業したのがアミイダ(当時は阿久戸成形)です。当時は両親と私と妹と、母のお腹の中に弟がいたのですが、全財産が¥50,000-というほど貧しかった時代でした。
 しかし、妹と当時を振り返っても「貧乏した記憶はないよネ」と、語り合っています。朝晩の食事も普通に摂り、いろいろなことをやらせてもらって育ちました。多少の我慢はしましたけど、友人の家を羨ましがるとか、貧乏していたという記憶がないのです。父の会社が倒産したことも知らなかったし、母が働きに出て鍵っ子にはなりましたけど「お金がないから困っている」というようなこともありませんでした。周りの方に恵まれていたからだと思います。もちろん親戚に助けられたり、父や母の知人に支援を受けたりした、と聞いています。
 倒産して一文無しになったときに、父は友人から「仕事を回すから工作機械を買ったらどうか」と勧められました。父は銀行に行って「¥2,000,000-を貸して欲しい」と掛け合ったのですが貸してもらえるわけ無いですよね。その友人は大手のメーカーにいて徐々に忙しくなっていく仕事の様子から、手伝ってくれる外部の力を必要としていたのです。だから「工作機械を買えば」と誘ってくれたのですが、そのための資金がありませんでした。地元の銀行に頼み込んだのです。担保も何もありませんでしたが父は必死でした。足しげく通い、最後は土下座までしたそうです。すると地銀の支店長も動かされ、融資を受けられることになりました。いまでは考えられないですよね。そこで平面研削盤を手に入れました。
 工作機械が手に入ったので次は工場です。最初の工場は、以前親戚が養鶏場として使っていた“鳥小屋”でした。下は土間で、壁も板を張り合わせたようなもので、“赤城おろし”が吹きまくる冬は寒かった、と聞いています。それでも 1978 年1月 15 日に平面研削盤とストーブだけで「阿久戸成形」として創業しました。残念ながら当時を物語る写真などは手元に残っていません。食べるために必死だった時代で「思い出作り」などには意識が向かっていなかったのです。
 出だしは好調で、桜が咲く4月には太田市の中心街の飯田町に移転しました。そこも親戚の土地でしたが 1987 年までいました。創業の翌年 1979 年には平面研削盤2号機を購入できました。そこから市の北東部、足利市との市境に近い東新町に移転して、個人事業から法人登記して「有限会社阿久戸成形研削所」を設立、父の阿久戸忠雄が代表取締役に就任しました。それから 12 年後の 1999 年 10 月に、現在地の太田市龍舞町に本社社屋を新築して移転してきました。コアとなる仕事は、主に輸送機器部品の高精度研削加工です。

Q.移転の歴史はアミイダの事業展開が順調に進んだことを表していますか?

 これまでを振り返っても、何か特別なイベントがあったわけでもなく、初めの主要製品だったプレス用ピアスパンチを中心に着々と目の前の仕事をこなしてきた結果だと思います。それを“順調”と表現しても良いと思います。
 “鳥小屋”から、次に移った飯田町は本家のあった場所でした。この頃から母も手伝い始めたと聞いています。忙しいから手伝って欲しい、と言われたためですが、事業が着実に成長していたことが判ります。
 私は両親と、私、妹、弟の5人家族でした。親戚のみなさんとは仲が良く、正月には親戚一同が集まっていました。建設会社が倒産したときは、母方の親戚にずいぶん助けてもらったようですが、特筆するようなエピソードもありません。悪いことをすれば、叔父や叔母たちが、自分の子供でもないのに本気で叱ってくれるような環境でした。
 創業期を振り返ると、高度経済成長(1955 年~ 1973 年)が終わり経済成長は鈍化しましたが、安定成長期に入り、それまでの“高度経済成長期”とは異なり充実期に移っていきました。アミイダは、そうした時代背景の中で成長できたことは幸運だったと思います。

Q.創業されたお父様はどのような方でしたか。

創業者:阿久戸忠雄(提供)

 父は、県立太田工業高校の1期生で、ずばり「木工の世界」の職人でした。性格は職人気質の頑固者で、自分の意見は曲げない性格だし、褒めもしなければ教えもしないといった「ザ・昭和な人」でしたがリーダーシップはありました。木工から金属加工の世界に入っても職人気質は変わりません。
 材料の違いは大きいと思うのですが共通することも多かったと思います。しかし創業当初は、黙々と朝から晩まで機械と向き合い、やっても「こんなもんか」と嘆いていたようです。それでも受注はかなり順調に増えていったようです。
 木工と金属加工の違いはあっても、モノを作る仕事の共通性は、材質の違いを見極める感性や、道具と周辺機器の使い方、段取りや手順を工夫するときの着眼点には共通するものがあります。「砥石の選定」には苦労したらしいですが、理屈が分かったあとはすこぶる順調に生産数は伸びたようです。
 仕事が順調だったのは、木工職人の時代から身についていた丁寧な仕事ぶりがお客様に評価されたからだと思います。ときには昼間は外回りをして、仕事を持ち帰り徹夜で仕上げて翌朝即納品するような離れ業もやったようです。
 お陰様で、少しずつですが顧客は増え、そのうち知り合いが一人加わり、次に母が加わりました。
 母親については“無償の愛”とはこういうものか、と思える人です。朝は誰よりも早く起きて朝食の準備を始め、家事をこなしてから仕事に掛かり、夕方には子供たちの習い事の送迎をしていました。それから夕飯の準備など家事をこなす毎日でした。性格も明るく元気で、小学生の頃に父兄が集まり撮影していた集合写真では一人だけとびっきりの笑顔で写っていました。人のために尽くせる頑張り屋で、この母も「ザ・昭和の女性」でした。

母:阿久戸文子(提供)

 その頃に平面研削盤の3号機を増設しました。その新しい研削盤を母が担当することになりました。当時は女性が加工現場にいること自体珍しいことでしたが、男性が力任せに取り組む作業を、繊細な感性で仕上げて客先からの評価も高かったようです。70 年代後半から 80 年代にかけて日本の産業は力をつけて“作れば売れる時代”が迫っていました。業績が向上したのは、そうした時代の追い風があったこともありますが、創業者の丁寧な取り組みや母の繊細な仕事ぶりに事業の成長の原動力があったと思います。

Q.長男・阿久戸洋希の入社までにはどのようなエピソードがありますか?高校卒業後、一年間のオーストラリア旅行を経験されたとのことですが、どのような思いがあったのですか?

 将来的には会社を継ぐというイメージはもともとありました。仕事に役立ちそうだから商業高校に進みましたが、率直に言えば家から近かったからです。工業高校に進んだ方が良いとは考えませんでした。いずれ入社すれば、どっぷり浸かる世界ですから、あまり堅苦しく考えませんでした。
 いま考えれば、会社を継ぐために行かなければならない高校や大学に正解はないと思いますし、財務に関わることで言えば、簿記の勉強ができたわけですから、まぁ良かったと思っています。
 オーストラリアに行ったのは、卒業後に即入社をすると自由がなくなるという思いがあり、一年間だけ自由に時間を使わせてほしいと親に相談してOKをもらい、どうせダラダラと過ごすなら経験できないことをやろうと「外国に行っちゃえ!」と思ったからです。
 行き先がオーストラリアになったのは、ワーキングホリデーを使ったからです。選択肢はイギリス、カナダ、そしてオーストラリアの三ヶ国だったのですが、前の二ヵ国は冬が寒すぎるという単純な理由でオーストラリアに決めました。当然ですが、ワーキングホリデーで行きましたので、アルバイトもしました。アルバイト先は飲食店や観光客向けのお土産屋さんなどでした。
 その時の経験を改めて考えてみると「めげない」、「一人でやり切る」といったところに影響を与えていると思っています。それほど学力もなかったので、極端に言えば「イエス」、「ノー」、「ハロー」、「エクスキューズミ―」くらいの英語力でよく行けたなと思っています。

Q.帰国して入社しましたが、家業を引き継ぐ以上は業績を拡大しなければ、と思いましたか?

 オーストラリアから帰国して、1992 年にアミイダに入社しました。世間では「バブル経済崩壊」と表現される厳しい時期です。創業して 14 年目でした。すでに6名体制で事業を推進して、売上は、ざっとですが創業時に比べて 20 倍くらいにはなっていたと思います。
 この頃は 80 年代の強気の日本経済が縮小し始めて、経済状況は悪化していきました。でもそのような影響をダイレクトに受けるのは、どちらかというと規模を追求するタイプの企業だと思います。アミイダは、事業規模を追うことよりも丁寧な仕事ぶりで事業を伸ばしてきたので、「ウチでなければ困る」というお客様に支えられ、バブル経済崩壊の打撃はそれほど大きくありませんでした。
 これはラッキーだったのかもしれません。作れば売れた高度経済成長期や身の丈以上に背伸びしている時代だったら、今日の自分とは違う経営者になっていたかもしれません。
 そのような環境だったから私は後継者として事業全体を見ることを心掛けました。時には加工現場に入ることもありましたが、私が取り組んだことは、一緒に働いている社員に、働く意味をともに考える環境を作ることでした。
 世の中には大企業とか一流企業とかよばれる企業があり、そうした企業に就職できれば一生安泰だとか幸せだとか考える人も多いですが、幸せを考える基準は人それぞれです。
 大事なことは、自分の仕事を楽しいと考えられることではないでしょうか。縁があってアミイダで共に働く仲間には幸せでいて欲しい。そのためには日頃の業務の中で起きる小さなことを疎かにしないように気を付けています。例えば「机の上を片づけて」と指示します。「そんな些細なことは若いものにやらせればいい」と考えられがちです。しかし会社の仕事にランキングはありません。私は「雑用」というのは社内にないと社員にいいます。「机の上を片づける」ことを頼むと、そのやり方は人それぞれです。「自分はもっと大きな仕事をしたい」と思うのが今風の若者かもしれませんが、小さな仕事をキチンとできない人には“大きな仕事”は出来ません。

Q.入社して 14 年後にアミイダが誕生しました。

アミイダの社名ロゴ

 「失われた 10 年」が 20 年、30 年と伸びて行っても、丁寧な仕事を心掛けてきた私たちの業績は少しずつですが拡大して、1999 年 10 月に現在の龍舞町に移転しました。お客様も増えて仕事の幅も広がりましたので 2006 年9月に有限会社阿久戸成形研削所を株式会社へと組織を強化しました。その時に社名変更を考えました。新社名を決めるにあたり、2つの縛りを作りました。社名に「阿久戸」の名を入れないことと、世の中に存在しない唯一の社名にすることです。そのとき観音様をヒントに社名を考えたキヤノンさんのことを知りました。
 観音様は、浅草寺の観音様で親しまれていますが、人々の声を観じて、その苦悩から救うという慈悲深い菩薩様と言われています。そこでわが社に相応しい仏様を探したところ阿弥陀如来様に出会いました。阿弥陀様は、他のどの仏さまにも見捨てられてしまった人でも、最後に手を差し伸べてくれる仏さまとのこと。うちの会社でも、どこに頼んでもできないといわれた仕事で困っているお客様を最後に助けられる会社になろう、という思いを込めて、阿弥陀様から戴いて「アミイダ」という社名を選びました。
 同時に社業を表現するロゴマークを考案しました。4つの丸はコア技術である研削加工の①円筒研削(青)、②内面研削(オレンジ)、③平面研削(赤)、④プロファイル研削(緑)の砥石の大きさを表現しています。

本社工場概観

Q.1999 年 10 月に龍舞町に移転してから今日まで、アミイダは充実期にあるようですが、全体を振り返っていただけますか?

 たしかにこちらに来てから工場を増築(2006 年8月)したり、隣接地に第二工場を新築しました(2011 年2月)。さらに新事務所と検査室を完成させました(2015 年3月)。
 基本的には規模を追いかけていないので、増築や新築などの成長の速度はゆっくりです。第二工場にはアミイダとしては初めての量産品といえる大ロットの仕事があり、その対策としてガントリーローダをつけた自動加工システムを開発して生産性を高めました。これは自動車部品の仕事が始まったからで、会社の歴史の中では珍しい「成長のための投資」と言えるかもしれません。しかし、40 年以上の歴史の中で、変化したポイントとしてあげられるのはこのときくらいです。創業時の主力製品だったプレス金型からの転換も、ゆっくりと進んでいきました。

隣接地の第二工場

自社開発の自動化システム

Q.阿久戸社長が入社して 20 年経過した 2012 年に創立 35 周年記念式典が開催されました。その半年後に創業者・阿久戸忠雄さんがお亡くなりになりました。バトンタッチは突然やってきましたが混乱しませんでしたか?

 35 周年記念式典は、父の病気がみつかり急遽開催したようなものです。病気などとは無縁だった父ですが、あるとき人間ドックに入ると癌が見つかりました。見つかったあとも、本人も我々家族も死ぬなんて全く思っておりませんでしたし、皆が治るものだと思っておりました。しかし治療で思うような効果が得られず、亡くなる1週間前に病室で“命の期限”を父に伝えたところ「どうやら命の期限がきたらしい」と応えました。「バトン」がテーマのこの取材ですが、そのときも引継ぎの話は何もありませんでした。入社して 20 年経っていましたから、何とかなるだろうという気持ちはありましたが、パソコンのパスワードも判らない。登記?定款?銀行関係も丸投げで、税理士さん司法書士さんにお世話になりました。父から言われたのは「お前ならできる。心配していない。お母さんだけは守ってくれヨ」だけです。バトンを投げつけられた感じです。まさに「千尋の谷に突き落とされた獅子」でした。ですから社長になったからといって何かを始めたわけではありません。

Q.ホームページにアップされている会社紹介には「社員満足第一主義」という言葉ありますが、どのような意味ですか?

 アミイダは小さな会社ですが、良い仕事をする企業でありたいと考えています。創業者達が丁寧な仕事でお客様に評価されてきた。「丁寧な仕事」ができるのはどのような会社かを考え抜きました。最近よく「お客様とともに」を標榜する企業が増えましたが、アミイダもそのようでありたいと思います。しかしそれにはお客様にとってアミイダが「ともにいて欲しい企業」でないとダメです。そのためには、働く社員が仕事や会社に満足していないと、お客様に寄添うことはできないと思います。そこでアミイダは3つの満足を追求することにしました。まず「社員満足」、次に「顧客満足」、その結果として「会社満足」です。この順番は大事です。

創立 35 周年記念式典(提供)

 何を基準として「満足」するかは、「一流の仕事」ができるようになることです。そこにプロとアマの違いがあります。自分で喜んでいるうちは未熟です。誰も見ていないところでも手を抜かず、他の人を喜ばせることができる人がプロ。いい仕事をする人は、ほんの些細な小事・細事を大事にする人だと思う。世に“雑用”というものはない。新入社員が入ったときに最初に講義するのですが、私の考えでは、仕事に“雑用”はない、と言います。私は何か小さな仕事を貴方に頼むかもしれない。しかし雑用だと思って頼むことはない。雑用だと思うのは貴方のほうだ。「誰でもできるじゃない」とか「こんなつまらない仕事」と受け取るのは貴方で、出す側は雑用だとは微塵にも思っていない。小さな仕事ができない人には大きな仕事は頼めない。まず「できること」を「完ぺきにできる」ようになることを覚えようぜ、と言います。
 小さな仕事を完ぺきにできることが積み重なると、だんだん大きな仕事もできるようになる。まずそこから始めようと話すのです。こうした考え方は、父から受け継いだ面もありますし、自分で考えたこともあります。またお客様から教えられたこともあります。

創立 40 周年記念式典(提供)

 お客様から教えられた貴重な経験があります。二輪車の世界最高峰「MotoGP」に出場するレーシングマシンの部品で不適合品を納品してしまいました。社長になってひと月後のことです。ウチには部品の識別装置がなかったのが原因です。初めてのことで気が動転して、再発防止の手当てをしていると、先方から電話が来ました。あまりの出来事で、識別装置やら事後対策でグズグズしていたときにお客様からお怒りの電話が来たのです。「まず謝りに来るのが先ではないか?」と。菓子折りをもって飛んでいき、対策として識別装置購入の準備を進めていることを話すと「そこまで手当てしていたのか」と、状況が好転しました。MotoGPへの参加表明をしているのに不参加になると億を超える損害になる。アミイダでは、とても億単位の損害賠償はできません。すると「分かった。今回はお咎めなしだ。全額支払うからこれからもウチを助けて欲しい」と部長にいわれました。帰りのクルマの中で泣きました。
 このときの教訓として、経営者に求められるのは「スピード」、「行動力」、「決断力」だということを学びました。ほぼ、途方に暮れているような状態で、どうしようか判断もつかず、行動も起こせなかった私に、そのことを教えていただきました。まぁ、教えていただいた後の行動なので、結果としては許していただきましたが、リカバリーができたとは思っておりません。

Q.そのような経験を積まれてきて、現在のアミイダの守備範囲を具体的に教えていただけますか。

 主に輸送機器部品の高精度研削加工を得意技にしています。具体的には円筒研削、内面研削、平面研削、プロファイル研削が主流です。小ロットの多品種の試作から数百個程度が守備範囲です。円筒研削はφ300mm、芯間 1,000mmまで対応します。内面研削は内径φ2mm~φ350mmまで、平面研削は400mm×200mm、高さ 200mmまで対応できます。プロファイル研削は成形でストローク 135mm、円筒装置でφ100mm、芯間 200mmまで対応できます。
 さらに 2015 年には検査室も新設しました。アミイダの経営理念は「創意に満ちたチャレンジ文化を創造し、研削加工を通じて社員・顧客・会社の満足を追求し続け、広く地域社会に貢献する」ことです。とにかく相談だけでもしてみよう、と思っていただけるように社内のチャレンジ文化を育てて行きます。

【アミイダの研削加工部品】

円筒研削

内面研削

平面研削

プロファイル研削

Q.貴重な経験を経て、アミイダの事業は堅実に成長していったように見えます。企業の成長には“エンジン”が必要だと思いますが、アミイダのエンジンは何ですか? 同じく「会社紹介」に、「(技術+知識)×人間性=最高の社員」とありますが、それはどのような意味でしょうか?

 強力な技術力や大口クライアントの存在が企業を成長させる話はよく聞きます。しかし、私は「全社員の人間性」だと思っています。製造業なので「技術」や「知識」は大切なのですが、人間性に基づかない技術や知識はエンジンになりません。
 私の考える最高の社員とは 【(技術+知識)×人間性=最高の社員】 です。どんなに優れた技術や知識があっても、人間性がゼロであれば、その社員は「ゼロ」のままです。
 会社は組織で結果を出す場所なので、利害関係のある人たちから認められ、好かれる必要があると考えています。新規の取引先も、その会社の技術力に触れる前に、担当者の人間性に触れるので、そこですべてが決まるといっても過言ではないと思っています。
 技術や知識はいくらでも教えられますが、「今日からこういう性格になってくれ」と言っても絶対に無理です。どんなに凄い技術や知識があっても人間性がダメだと強い組織にはなりません。にもかかわらず人間性の成長には時間がかかります。時間がかかるからこそ一番重要視している会社を支えるエンジンです。
 なので、私がエンジンを燃やす燃料になればいいと思っており、理念、方針などから私の情熱が伝われば、エンジンは効率よく回ってくれるのではないでしょうか。

Q.社員をそのように教育するにはどのような苦労がありますか?

 私は「教育」ではなく共に育つ「共育」を重視します。技術を教えるための工夫というか、オリジナルなものは特にありません。他の製造業の教え方とそれほど変わらないと思います。
 ただ、雰囲気づくりと言えるか分かりませんが、アミイダでは、ほとんどの社員さんたちが名字ではなく、下の名前で呼び合っています。それによって仲間同士の距離も縮まっているのではないでしょうか。ちなみに、私もほどんどの社員さんを下の名前で呼んでいます。
 さらに「ユニークだ」と言われているいくつかの取り組みがありますからご紹介します。
 まず「アイデア休暇制度」です。1年に2回、面白おかしな“嘘”を思いっきりついて休める休暇制度です。その嘘が、その年の中で一番面白い人を表彰しています。最低3人が参加して嘘をつくことが条件です。「ラブ休暇制度」は、1年に1回、既婚者だけが使える休暇制度です。結婚記念日や誕生日などに利用し、会社から¥5,000-のお祝い金を支給します。さらに「健康診断オールA手当」があります。健康診断の結果が「オールA」の人には^¥500-の手当てを支給します。2年連続であればさらに¥500-をプラスします。上限を¥1,500-としてオールAが続く限り支給します。
 「育児休業」は男女ともに取得するように勧めています。また、地域貢献の一環として工業高校2年生には「インターンシップ」を、中学2年生には「職場体験」ができる機会を提供しています。
 働くことを苦痛と感じる人がいるのは事実です。しかし私は、学校のクラブ活動と同じように考えよう、と言います。うるさい顧問や意地悪な先輩がいても卒業して振り返ると、苦しかったことなど忘れて楽しかった思い出ばかりです。アミイダのホームページを見た人たちが好感を持ってアプローチして下さることが増えています。社内に吹く風通しの良さを感じて下さることが嬉しいです。

Q.今風の表現を使うと「社員第一主義」とでもいうのでしょうか。アミイダはこれからどのように進むのですか?

 それほど身構えてはいません。これから産業界がどのように変化するかは判りません。その為には「未来の情報」が必要ですが、過去を含めて学ぶ必要もあります。産業政策にも積極的に参加します。群馬県の「1社1技術」では「各種金属研削加工技術」で認証を受け、厚生労働省の「イクメンプロジェクト」に参加して環境省の「エコアクション21」にも参加しています。さらに「ぐんま女性活躍大応援団」の登録団体でもあります。こうした取り組みで社員が社会の動きにも意識を向けるようにしていますが、経営者としては取引先、証券・銀行の金融業界などから情報を集めています。
 企業としては事業の柱を、現在半分ほど占めている「自動車関連」の比率を「産業機器」「電機機器」の2つを加えて、それぞれが3分の1の比重を持たせて安定させたいと思っています。

ありがとうございました。

 


株式会社アミイダ会社情報
【沿革】
・1978 年1月 15 日
 太田市富沢町にて平面研削盤1台を導入し、「阿久戸成形」として創業。
・1978 年4月 10 日
 太田市飯田町に移転。
・1979 年
 研削盤2号機を増設。
・1983 年3月
 研削盤3号機を増設。
・1987 年5月
 太田市東新町へ移転。有限会社阿久戸成形研削所設立。代表取締役に阿久戸忠雄が就任。
・1992 年
 阿久戸洋希(現社長)入社
・1999 年 10 月
 太田市龍舞町へ現本社屋新築、移転。
・2006 年8月
 増産に伴い工場増築。
・2006 年9月1日
 株式会社への組織変更に伴い社名を株式会社アミイダへ変更。
・2011 年2月
 本社の隣接地に第二工場新築。
・2012 年1月
 株式会社アミイダ創立35周年記念式典を開催。
・2012 年6月
 創業者である阿久戸忠雄の逝去に伴い代表取締役に阿久戸洋希が就任。
・2015 年3月
 検査室と新事務所 完成。
・2016 年4月
 経営革新計画 認定。
・2016 年8月
 経営力向上計画 認定。
・2016 年 11 月
 太田市から優良事業所表彰受賞。
・2017 年1月
 創立 40 周年記念式典を開催。
・2018 年3月
 群馬県優良企業ものづくり部門優秀賞受賞。

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