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ー 科学と技術で産業を考える ー

優れたことづくり例

技術者のバトン

有限会社マルニ精機 関口貴志 社長/ インタビュー

2023 年 03 月 22 日

有限会社マルニ精機
代表取締役社長
関口 貴志

生年月日 :1969 年 10 月 21 日生まれ
出身地 : 群馬県
入社日 : 2000 年2月
取締役就任日 : 2014 年9月
社長就任日 : 2016 年9月
家族構成 : 父、母、妻、長女、長男、次男、ネコ
趣味 : オートバイ、読書
【団体などの公的な活動の履歴】
群馬中小企業家同友会 富岡安中支部 共同求人委員会
西毛機械工業協同組合 理事


Q.最初に御社(有限会社マルニ精機)について教えてください。

 創業は 1981 年で、私の義父である原田徹之が大手の機器メーカーから独立し、個人事業としてスタートしました。当時は、メーカーから独立して自身で事業を始めるといったことがあり、義父もその流れから独立したと聞いています。義父は設計部門に在籍しており、ものづくりにはかなり深くかかわっていて、職人気質の強い人でした。独立した当初は義母も含めた家族経営で、従業員は 3 名程度だったと聞いています。
社名が「マルニ精機」となったのも、創業者の原田家の家紋が「丸に二つ引き」でしたので、それが由来となっているそうです。

家紋「丸に二つ引き」

 独立後は、治工具や専用機の設計などを中心に、建機関係部品の加工などの仕事を行っていましたが、なかなか売上は伸びなかったようです。当時は指値で仕事をすることが多かったのと、受注して製品加工を行ってもその売上げをなかなか回収できなかったりといった苦しい時代があったそうです。
 その後、1991 年に法人化したタイミングで他社で働いていた義兄が入社し、専務として新規設備の導入を行いました。この時に当社の設備の NC 化が進められました。
 生産品目も治工具設計の経験を活かして、試作品の受注や難易度の高い仕事を行うようになり、大手精密機器メーカーや工作機械メーカー、光学機器部品、医療関係部品など、様々な仕事へと拡大し、現在に至ります。
 生産品としては残念ながらお見せできない秘匿性の高い部品が多く、なかなか PR などには使えないという制約があるため、ご了承ください。図面上では、よく設計者の方々は1/100mm 以内という精度と書かれていますけど、、、
 使用する材質については、アルミやステンレスなどが多いのですが、スーパーインバー(FN315)、純チタン(TP340)、チタン合金(64 チタン)などの加工実績もあります。基本的に重量については、人手で運搬できる範囲の製品加工を主に行っていますが、それ以上の製品については相談しながら対応させていただいています。

Q.関口社長の経歴をお聞かせください。

 私自身は隣の安中市の出身で、地元の実業高校を卒業しました。卒業後は、地元の自動車部品関係メーカーに就職しました。そこでは NC 旋盤やマシニングの担当をしており、円筒研磨などの加工にも携わっていました。その時の経験ですが、現場で加工を担当していると、加工に必要なこと以外はなかなかやらせてもらなかったことがありました。当時は今のように「何でもチャレンジしてやらせてもらえる」という時代ではなかったので、どうしても「時間と効率」が優先されたものづくりのシステムで、一人一人が技術を習得するということではなかったんです。社会人になって、24 歳の時に結婚すると、その頃から義父が「転職して仕事を手伝って欲しい」という話をするようになったのですが、自分はまだ若かったので、ここでできることがまだあると思っていたので、ずっと断っていたんです。
 結局、自分のいた会社はその後外資系に吸収されることになり、社風も少し変わっていってしまったので、このタイミングで義父の誘いに従う形で 2000 年にマルニ精機に入りました。新卒からマルニ精機に入るまで、約 10 年間、義父の誘いを断っていたことになりますね。再就職した時は、地元も自宅も安中市で、富岡市には知り合いがあまりいない状況でしたので、不安だったことをよく覚えています。
 実際にマルニ精機に入ってみると、驚くことがたくさんありました。これまで、直接関わってこなかった工程をすべて 1 人でやらなければならない。しかし、私にはその経験が不足していました。義父は根っからの職人で、腕にも技術にも自信がありましたが、人に教えることは得意ではなかった。ずっと黙って自分で仕事をこなしていくんです。「見て覚えろ」「自分で考えろ」と、そういう姿勢の人でした。
 こんな状況でしたので、会社に入ってから誰からも教えてもらえなかった。そこで自分は外で勉強をすることにしたんです。当時、地元の機械組合の青年部会に入れてもらって、先輩方に教わって技術的なことやプログラミングなどを教わりました。
 義父は手作業の人でしたので、NC 設備を入れた義兄の設備は当時の工場長が中心となって加工を行い、私も NC 設備を使いながら覚えていったという状況でした。
 その後、義兄が会社を離れたことと義父の高齢化に伴い、2016 年に私が後を継いで社長になりました。これは義父の高齢化という事情が一番大きかったと思います。自分自身は入社した時には後継者として会社を継ぐという意識はありませんでしたが、不思議なもので周囲の環境がどんどん変化する中で、自分に順番が回ってきたというのが率直な思いでした。すでに自分が入社してから 16 年経過していたので、会社の事情や取引先との関係、さらには営業活動や社内外の交流などにも自分が前面に出ていましたので、最後には「もう自分がやるしかない」という覚悟はできていました。

Q.関口社長になってからのことについてお聞かせください。

 自分が社長になってからは、積極的に動いたのは営業活動です。それまでの発注先が、1 社からの受注が中心で、かなり依存度が高かったんです。これを分散していこうと考えました。特に指値で受注していた仕事からシフトする際に、専務が取引していた都内の大手光学部品メーカーとの取引窓口が残っていたので、ダメでもともとといった思いで連絡し、何度か通い詰めたところ、小ロットの単品加工の仕事を受ける事ができました。この仕事に取り組んだところから道が広がっていったと思います。
 極端な話ですが、当時は 150 枚の図面でロット 5 個といった仕事などもありましたが、そういう仕事は当時は他社はやりたがらなかったんです。こういう仕事に前向きに応えていったことを評価していただけました。そういう対応をしていると、どんどん難しい仕事の相談や、マルニ精機だけではできないような仕事の相談もされるようになっていきます。

 「これはどう考えてもうちだけでできる仕事ではないなぁ」という仕事の相談がくるようになった頃から、横のつながりを意識するようになり、これがとても上手くいきました。
 冷静に振り返ってみると、富岡周辺は技術は高いが横のつながりがあまりなかったんです。一応、社長同士の顔は知っていても、そこの工場がどんなことをしていて、どんなものが得意なのかもわからなかった。これが私が所属していた青年部会のつながりなどから、近隣の仲間で受注していけば十分対応できるということがわかり、協力体制を構築することができました。「富岡地域の横のつながりによるものづくり体制」といった感じです。
 超小物旋盤を得意とする工場や、優れた技術を持つ板金工場、塗装工場やメッキ工場など、チーム体制のようなものができて発注元の依頼に対応するようになりました。この結びつきは強く、お互いに協力しながらできる体制まで育っていきました。
 話は戻りますが、マルニ精機は親会社などもないので社内体制は独立した形で自由に対応することができます。これにより私が社長になってからは、治工具や単品試作など 10~100 個までの生産品を得意とするようになりました。

CNC 3 次元測定機

 こういう信頼を得られるようになってからは、工作機械メーカーの部品やメーカーでも在庫を持っていない補修部品などの依頼にも対応しています。
 もう一つ、マルニ精機にとって大きかったのは、早い段階から 3 次元測定機を導入していたことが挙げられると思います。光学系部品の仕事をしていた関係で、15 年前には導入していました。従業員 10 人未満の会社で、3 次元測定機を持っているところは少なかったと思います。早い段階で導入を決断していましたので、それが他の受注にもつながっていったということもありました。
 こういう体制にシフトしていった結果、1 社に依存することなく全体の 10%以下の取引先を多く持つことができるようになり、社長就任以降は一度の赤字も出さずに、コロナ禍においても光学機器や医療機器関係部品では前年比 1.5 倍以上の売上を残すことができました。その後の設備については現場の意見を聞きながら、適時 導入していくようにしています。

Q.マルニ精機にとって思い出深い仕事についてお聞かせください。

 創業者の義父の時代にも、私が継いでからの仕事でも印象深い仕事はたくさんありました。義父の時代のことで良く話していたのは、ロケットのブースター部分の計測部品の治具を作ったことがあり、これが成果を上げたということがあったようです。
 また少し変わった仕事としては、世界遺産である富岡製糸場に展示してある「ブリュナエンジン」の復元事業である「ブリュナエンジン製作委員会」の参加企業として、その動態製作に参加したことです。「ブリュナエンジン」は、富岡製糸場の創業時から繰糸器を動かす動力源として使われた「横置き単気筒蒸気機関」であり、当時の現物は愛知県犬山市にある「博物館 明治村」に展示してありますが、この実機を分解してレプリカを作るという事業に参加し、いくつかの部品製造に直接関わったことは、富岡市のものづくり企業としてのやりがいだけではなく、とても有意義な仕事だったと思っています。

富岡製糸場内にある、完成した「ブリュナエンジン(レプリカ)」
※画像提供:富岡商工会議所 ブリュナエンジン製作委員会様

 他には、先ほどの光学機器部品の製作は、現在のコロナ禍のような状況で医療関係の研究機関現場で実際に役立っており、とても重要な仕事として「やって良かった」という達成感にもつながっています。

Q.関口社長がこれから目指そうとしていることについて教えてください 。 

 私たちマルニ精機は、今で言うところの VE・VA 提案のような「ものづくりの現場からの最適加工提案」を、発注先に対して当たり前に行ってきました。これは私たちの仕事が、「初めて図面から作るものは、まだ世の中にないものを作り出す」という仕事であり、これはお客様にとっての夢でもあると考えているからです。カタチにするのが私たちものづくりの現場の仕事なので、提案はむしろ当たり前だと考えていて、こうしてできた信頼関係が次の仕事に結びついていくのが発注先と現場の信頼につながっていきます。
 創業者の原田徹之には、
 「難度の高い製品、後々まで評価の残る製品をめざす」という思いがありました。

 この思いを受けながら、私自身はマルニ精機の経営理念を
   「マルニ精機は
    金属加工の技術で、安心を提供し
    信頼と信用で、社会に貢献し
    社員とその家族の幸福を創造します」
 と定めました。
 近江商人の経営の考え方と言われているものに「三方よし」という言葉があります。
 「売り手よし」「買い手よし」「世間よし」という 3 つの精神のことと言われていますが、この 3 つの満足を得られる商売をすることで世の中が成り立っていくというこの考えに私はとても共感しています。この考えは、昔の日本人にとっては当たり前のこととして捉えられていましたが、現代にも十分通用すると思います。
 これは当社に限らないことですが、時々 コストダウンの流れの中で、相見積りになるとどう考えても無理な価格を出してくる会社があります。こういう場合には、当社では無理をするようなことはしません。そういう見積りを出しているのであれば、実際にやってもらうのが一番です。そういう無理な価格で勝負しようとすると大抵の場合、長続きしないということを何度も見てきました。これは「三方よし」にはなっていないからだと思います。
 私自身の経験で、すごく難易度の高い製品を作り上げた際に、大手メーカーの研究者から「ありがとう!」と感謝されてとても驚いたことがあります。この「ありがとう」という言葉は、とことんやった自分たちに向けられた感謝の言葉であり、大きな成果だと感じました。
 それからは「お客様に『ありがとう』と言っていただける会社を目指します。」という言葉を掲げ、お客様とお互いに利益を出せることを目標としています。
 昔の現場は、「納期と品質さえ守れればいい」というのが普通のものづくりの現場でした。私もそう考えていた時代もあります。しかし、現代はそうはいかない。働くということは、現場以外にも様々な問題があります。
 時代の流れが速く、情報が溢れている現代は、ある程度のことはマネができてしまう。
 「技術を身につける」ということは大切ですが、これは引き継いでいくことができます。
たくさんの技術を身につけた上で、カンや経験など「自分が持てること」を増やしていくことで「マネができないこと=技能」として習得できると考えています。
 こういう従業員が増えていくことで評判につながっていき、評判をつくってくれる社員たちにはしっかりと分配していく。皆で稼いだお金をどうやって分配するかをしっかりと考え、ただ貯めておくのではなく「意味のあるお金」として回していく。そうして会社が地域にも貢献して、役に立つ会社としてまた評判へとつながっていく姿になります。
 そしてこれから会社を支えてくれる社員には、メンタルヘルスへの対応はもちろん、コンサルタントによる勉強会などを会社主導で進めており、さらに「ひとづくり」を大切にした会社として成長していけるようにしていこうと思っています。

ありがとうございました。

ご協力
 富岡商工会議所様 「ブリュナエンジン製作事業」
 ・富岡市世界遺産観光部様


有限会社マルニ精機 会社情報
【沿革】
・1981 年
 群馬県富岡市において原田徹之が個人事業として「マルニ精機」を設立
・1991 年
 法人化により「有限会社マルニ精機」に社名変更
 資本金 300 万円
 代表取締役 原田徹之
・1991 年
 日平トヤマ製 立型マシニングセンター TMC-40V を導入
・1998 年
 山崎技研製 NC フライス盤 YZ-500SG ATC を導入
・2003 年
 山崎技研製 立型マシニングセンター YZ-402HR を導入
・2004 年
 ミツトヨ製 3 次元測定器 Crysta-Apex C776 を導入
・2005 年
 群馬県「1 社 1 技術」に認定
・2007 年
 HAAS 製 立型マシニングセンター VF-6 を導入
 HAAS 製 立型マシニングセンター VF-3 を 2 台導入
・2014 年
 取締役に関口貴志が就任
・2016 年
 代表取締役に関口貴志が就任
・2017 年
 キーエンス製 画像寸法測定器 IM-7020 を導入
・2019 年
 DMG 森精機製 立型マシニングセンター NVX-5080 を導入
 ファナック製 立型マシニングセンター α-D21MiB5ADV を導入

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