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ー 科学と技術で産業を考える ー

優れたことづくり例

技術者のバトン

株式会社中島 中島将太 取締役/ インタビュー

2023 年 01 月 25 日

株式会社中島
取締役 総務人事部部長
中島 将太

生年月日 :1989 年1月 10 日生まれ
出身地 : 群馬県
入社日 : 2019 年 4月1日
取締役就任日 : 2021 年8月1日
家族構成 : 妻、長男、長女
趣味 : スキー、ゴルフ、読書
【団体などの公的な活動の履歴】
公社)群馬県中小企業家同友会 伊勢崎支部、青年部、共同求人委員会


Q.最初に御社(株式会社中島)について教えてください。

 当社は 1959 年に私の祖父である中島房次郎が、29 歳の時に伊勢崎市若葉町にて創業しました。祖父が 15 歳の時に終戦を迎え、その後伯父の織物工場に勤めていました。
 その後、25 歳で結婚した際に「これからは織物ではなく金属加工が注目される」と考え、当時、祖父の義兄が経営していたプレス工場で修行をしてから独立したと聞いています。
 独立当初は 8 名でスタートし、「けとばし」と呼ばれる「フットプレス」と小型のプレス機で弱電部品などを生産していました。その後、1969 年に自社工場を伊勢崎市宮子町に建設し「有限会社 中島製作所」となりました。
 生産品目も紆余曲折がありましたが、時代の流れの中で自転車用ライトのソケットから弱電部品、電話機器部品、自動車やバイクの部品など、時代とともに変化していきました。
 そして 1989 年に、現在の社名である「株式会社中島」となりました。
 2000 年に、最初の世代交代として、私の叔父にあたる中島建(私の父の兄です)が社長に就任しました。この時の祖父のエピソードがあって、創業者であった祖父は自身が 70 歳になった時に社長交代をすることを計画しており、こうした自分の計画を手帳にまとめていたそうです。ちょうどこれを実行する形で世代交代が行われました。祖父はとても穏やかな人で、おおらかで優しい人というのが私の印象です。コツコツと物事を進めていくまじめな人ですので、常にいろいろなことを考えていたそうです。
 2000 年代は中国への進出があり、現在の社長である私の父、中島泉が専務の時代に約 2年端半の間赴任していましたが、かなり苦労したようです。撤退を考えた時期もありましたが、中国系の企業と一緒に合弁会社を設立する形で現在も続けています。
 その後、2019 年に 3 代目として私の父 中島泉が社長に就任しました。この年は創立 50周年でもあり、中島にとって一つの節目の年でもありました。2020 年には、取引先の関係工場を譲受される形で、富岡市にある工場を新設しています。これにより、従業員が 100 名を超える体制になりました。

本社工場

富岡工場

 現在は「精密小物部品」をプレス機を使って寸法公差 1/100mm の精度の加工を行っています。自動車関係の電装部品や駆動系部品、電子制御部品などが中心で、材料は鉄を中心にアルミ、ステンレス、真ちゅうなど幅広い材料を扱っています。中心となる板厚は、0.1~3.2mm くらいがもっとも多く、生産品によっては毎月 100 万個をつくる部品もあります。

プレス加工サンプル

Q.中島取締役の経歴をお聞かせください。

 私自身は最初からここで働くという考えはありませんでした。祖父や父からも中島に入るようにと言われたことも特にありませんでした。
 大学は、明治大学 理工学部 機械工学科を卒業し、そのまま大学院(理工学研究科 機械工学専攻)へと進みました。
 卒業後は、そのまま都内で文具メーカーに就職し、開発・設計を担当しました。これはもともと筆記具が好きだったということがきっかけでした。その文房具メーカーでは新入社員として入社し、製品設計に 3 年間在籍、その後樹脂金型設計を 3 年間担当しました。この間に生産管理、品質管理、製品設計、金型設計など多くのことを経験することができ、今の自分の知識の支えになっています。比較的大きな企業で新入社員として働くという経験もできましたので、その時の習慣で「言われるのではなく、自分から動く」という姿勢も身につけることができました。
 社会人になってから 2 年後に結婚したのですが、その時にいろいろなことを考えました。一つは結婚によって、自分の将来を考えるきっかけになったこと。そしてもう一つ、ちょうどその頃に地元の友人たちと飲みに行く機会があって、いろいろな話をしました。地元で働いている友人たちとの話は楽しかったのですが、なんだかみんな苦しそうに見えたんです。
 自分はその頃、とてもやりがいがあって楽しかった時期だったので、そんな風に見えたのかもしれません。そんな友人たちを見て「もっとこの地元(群馬)からでも良い仕事を発信することはできるのではないか?」と考えるようになりました。
 当時は就職した文房具メーカーで、ちょうど自分もプロジェクトに参加していた時期で、そのプロジェクトには自分自身がとても力を入れて取り組んでいました。そういった自分を取り巻く環境や想いを整理し、その時のプロジェクトにきちんとした結果を出し、その上で実家である中島に戻ろうということを自分で決めました。その期間を 3 年後として考え、結婚したばかりの妻にも説明し、理解してもらいました。結婚して、それまで生活していた都内から群馬に生活環境が変わるということで妻が不安にならないようにすることも大切だと思っていましたので。
 こうして 3 年後に中島に入社するということを父に説明しました。たぶん祖父も父も喜んでくれたと思います。ただ、私としては喜んでくれた分だけ、自分も責任を持つということの重さを感じました。
そして、予定通りに 2019 年 4 月に中島への入社に至りました。

Q.中島の技術面、加工における特徴についてお聞かせください。

 中島には、小型から大型まで幅広く各種プレス機があります。順送プレスは 35 トンから300 トンまで 42 台、単発プレスは、12 トンから 60 トンまで 13 台を保有しています。プレス機については、アイダエンジニアリング製のマシンを多く導入しており、これはマシンの剛性に強い信頼を持っているからです。そして、プレス用の金型は約 2,000 型を保有しています。近年では、この金型のほぼすべてを内製化しており、これが中島の強味といえます。

 ワイヤー放電加工機を約 40 年前という早い時期から導入し、現在の社長が若い頃からこの放電加工機の運用に力を注ぎました。放電加工機でできることを徹底的に検討し、試作を繰り返したそうです。そして、他社にはない金型製造技術を築きあげた結果、金型は内製で製作することが可能になりました。金型設計とプレス加工を一貫してできるということは、金型を理解したプレス加工ができるということであり、品質確保とともにリードタイムを短縮できるというメリットがあります。この金型製作にはノウハウが詰まっていると言っても過言ではありません。中島の主力プレス機の 60 トンサイズの小物の精密プレス金型はほぼ内製化しています。これが大きな差別化技術と言えます。

金型設計

ワイヤー放電加工機

自社設計金型

 私が小学生の頃の思い出があるんですが、モーターライズのプラモデルのミニカーがとても流行っていました。このプラモデルに追加パーツを付けたりして遊ぶのですが、この追加パーツで「ノコギリ型」のローラー部品を放電加工機で作ってもらい、その部品を友達と一緒に使って遊んでいました。小さい頃から自分も工場に出入りしていましたので、いろいろな物が作られる「ものづくりの現場」はワクワクする場所でしたね。
 そんな遊び心を持ちながら、いろいろな角度から金型製造のための技術を高めていたのは、今になれば私もよく理解できます。自分も文房具メーカーで金型設計の経験があるので、熱中している時は時間を忘れて取り組んでいましたし。

ワイヤー放電加工によるサンプル

Q.事業承継についてお聞かせください。

 今回、私が中島に戻ってきたのは次に事業承継をするためと言えます。これまでは祖父から息子兄弟へと社長交代が行われてきました。今回の取材にあたって、私の父が 3 代目として 2019 年に社長になった際のことを聞いてみました。
 父の中島泉も物心ついた頃から、自分の家業はものづくりの仕事をしていることを認識していました。地元の工業高校へと進み、いつかは自分が会社を継ぐのだろうという意識はしていたそうです。
 18 歳で工業高校を卒業すると同時に中島に入社しましたが、夜学で工業系の短大へも進みました。その頃は従業員 15 名くらいの町工場で、自分のことを小さい頃から知っている従業員も多く、アットホーム的な会社でした。ただ、一番若い社員でも自分と 8 歳も離れていたため、居心地がよかったというわけではなかったそうです。

 そのため自分の母校へと何度も足を運び、新卒採用を開始しました。これが実を結んだ形となり、以降は安定して新卒採用ができるようになり、その社員たちが現在の社長を支えるブレーンになっています。
 そして、社長が 30 歳の頃に社内の若手社員たちと「NAKAJIMA YOUNG CLUB」という勉強会を立上げ、勉強会や工場見学などを行っていたそうです。こうして 2000 年に専務に就任しましたが、この頃に自分も事業承継を意識したとのことでした。
 社長からは、自分以外の事業承継なども多く見てきた中で、事業承継の際にはきちんと自分のブレーンを持つことが重要だという話がありました。自分が社長になった 2019 年の時から、次の事業承継についても真剣に考えているようです。「バトンを渡す人財を見極めること」、「ブレーンを含めた世代交代を目指すこと」、「自分が健康なうちに事業承継を行うこと」、「自分が 70 歳になるまで(2030 年まで)に行うこと」などを話してくれました。

 自分としては、入社して 4 年が経ち、最初は何をすればよいか手探りの状況でしたが、現在は「こうありたい、こうやりたい」ということが少しずつ明確になってきました。ものづくりの会社なので、技術的なことを習得するのはもちろんですが、「会社として必要な事は何か?」を考えることが重要と位置づけています。
 社員が生き生きと仕事をして、楽しさ、幸せを感じられ、月曜日が楽しみになる会社でありたい。そのためには、安定して利益を出せる体制をつくり、一人一人が自分の目的・目標を持つことができることなどの必要不可欠なことを日々考えています。
 そういうことをまとめると、結局は「ひとづくり」にたどりつきます。そのため、この 1年間は、コーチングの資格を取得したり、心理学・社会科学などの分野にも関心を持つようになりました。
企業の役割として「ひとづくりとものづくりを通して、社会に貢献する」そういう会社を目指していきたいと考えています。

Q.ブランドについてはどのようにお考えでしょうか?

 最初に、中島のロゴマークは、漢字の「中」の字が 3 つ集まっている形状がモチーフです。3 つというのは、「3 本の矢」をイメージしており、1 本では折れてしまうが、3 本が集まると折れにくくなるという例えが由来になっています。創業者である祖父が、有限会社設立時に考案しました。


 また、中島という社名についても、有限会社から株式会社になる際に、社名でコンペを行ったそうです。ここではいくつもの案が出たようですが、最終的に社長の判断で株式会社中島となりました。
 余談ですが、ウエブサイトは 2 年前に新しくし、名刺などのデザインも刷新しました。
 過去の名刺には、「プレス加工」という表記が何もないため、社名だけでは事業内容が伝わらないということに気づき、不足していた情報を加えると同時に刷新したという経緯があり、これは社内外でも好評でした。
 また、全社員に「経営方針」を毎年配布しています。これは 20 周年の時から始めているので、現在まで 35 年間続けています。配布する際には従業員全員分の名前を入れたものを配布しており、内容も時代の変化に合わせて改変を続けてきました。これは従業員の意識や自覚を持たせるには、とても効果があります。
 外国人の技能実習生の間にも受け継がれていることがあります。当社でも 5 人の外国人技能実習生に働いてもらっていますが、この実習生にも働くことの目的をきちんと忘れないようにまとめたものを翻訳して渡しており、日本人の従業員にも同じものが「経営方針」の中に記載されています。

全社員に配布されている「経営方針」と「技能実習生への心得」(社内資料)

Q.株式会社中島がこれから目指そうとしていることについて教えてください

 中島に自分が入社してから 4 年が経ちますが、まず最初の 3 年間は社内を知ることに務めてきました。その中で気づいたことがあれば、自分から率先して動いてきたので、いくつかのことに着手してくることができました。昨年(2022 年)11 月からは営業にも出ています。名刺は総務人事部のままなんですが。
あとは、自分も経験してきたことですが、技術者を育てるには、
・自分で選択と意思決定ができる自由な環境であること
・挑戦(実験)と失敗の経験
が必要であると思います。ここ数年、検証しながら進めていますが、新卒の社員には必ずフォローの面談をする機会を設けています。本人に振り返る機会をつくり、自分で振り返ることはとても重要であり、自分で振り返ることで次の行動に結びついて少しずつ前身することで成長して欲しいと思っています。
 我々の自動車部品の製造では、年々品質要求が高まっており、どうしても現場は「不良を出さないように」、「ケガをしないように」という未然防止に力を入れざるを得ないのですが、同時に「失敗から学ぶ」機会が激減しています。これはベテラン社員も危惧しており、少しでも経験してもらえる機会を与えるために、例えば廃棄予定の金型を使って、分解や修理をするといった教育案などのアイデアが挙がっており、ぜひ進めていきたいと考えています。
 そういった意味では、これからも目指していくのは「ひとづくり」のための施策がもっとも重要なテーマであると考えているので、お互いに助け合いながら「創立 100 周年」を目指して邁進していきたいと思います。

ありがとうございました。


株式会社中島 会社情報
【沿革】
・1959年
 伊勢崎市若葉町において中島房次郎が創業
・1969年
 業務拡張により伊勢崎市宮子町に移転
 法人組織に変更:社名「有限会社中島製作所」
・1989年
 株式会社に組織変更:社名「株式会社中島」
・1992年
 群馬県中小企業合理化モデル工場指定(現在も継続中)
 事務所、倉庫を増設
・2000年
 中島建が社長に就任
・2001年
 群馬県より「1社1技術」の認定を受ける
・2002年
 「ISO9001:2000」認証取得
・2004年
 海外拠点「崇業五金製品(深圳)有限公司」を台湾系企業と合弁で設立
・2006年
 「エコアクション21」認証取得
・2007年
 「TPMチャレンジ賞」を受賞
・2009年
 「中島華研五金(深圳)有限公司」設立
・2010年
 「ISO9001:2008」認証取得
・2012年
 業務拡張により現地伊勢崎市日乃出町に移転
・2018年
 「ISO9001:2015」認証取得
・2019年
 創立50周年
 中島泉が社長に就任
・2020年
 富岡工場設立(株式会社落合製作所より事業譲受)

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