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ー 科学と技術で産業を考える ー

優れたことづくり例

技術者のバトン

島田工業株式会社 島田渉 社長/ インタビュー

2022 年 09 月 28 日

島田工業株式会社
代表取締役社長
島田 渉

生年月日 : 1973 年6月 24 日生まれ
出身地 : 群馬県
入社日 : 1995 年 3月
代表取締役就任日 : 2011 年 11 月
家族構成 : 妻、長男、長女、次男
趣味 : 仕事(!)、ゴルフ、読書(漫画を愛読。ワンピース、キングダム)

 


Q.最初に御社(島田工業)について教えてください。

工場内の進捗は社長室でも現場でも随時映像で管理

 創業は1973年8月に関東工業様の社内に社内外注として、私の父 島田利春が設立しました。創業当時の社名は、島田工業所です。もともと父は、10代の頃に自動車整備士(2級)の資格を取得しており、この知識と経験を活かして今で言うところのロジスティクス・物流業からスタートしています。最初はチャーター便の運転手として別の会社に在籍していたのですが、ここで資金を貯めて独立する形でスタートしました。独立すると1カ月の給料がいきなり500,000円(当時)に跳ね上がり、それを父は母にポンと手渡したそうで、受け取った母は「何かの間違いじゃないか?返してきて!」と驚いて言ったという話を母から聞かされました。
 独立した後、当初の物流業から整備士の経験を活かした自動車用FRPボデーの製作架装・搬送機の生産を開始し、同じ頃に三洋電機様から受注していた空調機の組立梱包を開始することになり、それを機に新工場を建設しました。ロジスティクスの次には、アッセンブリーが事業の中心となりました。
 そして1980年に入り、空調機器関連製品の設計、部品加工、組立を一貫して行う機会を得ました。プレス・板金加工が事業の中心となり、この時に島田工業という社名となりました。大泉にある東京三洋様からの仕事が中心となり、売り上げも順調に伸びていきました。
 自動車整備士の資格を持っていたことからもわかる通り、父はとても器用な人で、同時にとてもせっかちと言いますか、気が早いところがあります。売上げが順調に伸びることに合わせて80年代は積極的に設備を増やし、工場を拡張していきました。同時に設計・開発にも力を注ぐことになっていったという経緯があります。
 この頃には、自社開発商品も手掛けることになっていきます。父はアイデアマンであると同時に仕事が大好きなんです。本当によく働いていた姿というのは私も覚えています。
 板金加工を行うようになってからは、仕事の幅が広がりました。これまでの空調関連だけではなく、医療分野、建設、交通関係などのフレームや部品を設計から受注して一貫体制で製造をしていくようになり、従業員も100名を超える規模になりました。早くからNCTを導入し、使いこなしてきたことも大きかったと思います。今でもパンチング機能とファイバーレーザーの複合機は当社にとって製品加工の要となっていますが、これはNCTを長年使いこなしてきたという自信からきているところもあります。
 精密板金加工が当社の中心で、主な材料は鉄、ステンレスなどが中心ですが、お客様のご要望に合わせて幅広く対応できる体制を整えています。板厚は、薄板から厚板まで、0.8mm~6.0mmくらいのものが多いのが特長です。
 おかげさまで、コロナ禍の中でも医療機器関係や空調関係機器の売上げが伸びており、前期の売上げも増収となりました。来年2023年には、おかげさまで50周年を迎えます。ここで何かお客様や従業員への感謝を形にできることを現在考えているところです。

Q.島田社長の経歴をお聞かせください。

今回の取材に同席されたみなさん (左から島田社長、マーケティング営業部 平間萌々果さん、中野美篤さん、小此木映里さん)

 私はもともと父の会社を継ぐという意識はまったくありませんでした。私は3人兄弟で兄がいるのですが、兄も同様に父の仕事を継ぐというような考えはなかったのだろうと思います。兄は最初から海外志向が強く、早い段階から海外に行っていましたし、一度も島田工業に入ったことはありません。
 私自身はどちらかというと活発で、小さい頃からはずっと剣道をしてきました。そういう意味では、小さい頃にはものづくりに特別な思い入れなどがあった訳ではなかったように思います。周りの同級生と同じようにプラモデルを作るくらいはありましたけど。
 学生時代には情報処理関係を学んでいましたので、最初は全く異なる業種に就職しました。そこで社会人としてのスタートをきったのですが、入社して1年でちょっと驚くようなことがありました。先ほども申し上げましたが、父はとても気が早いというか、思いついたら行動までがとても早いんです。
 ある時、父からいきなり電話をもらいました。「花屋をやるから会社を辞めてこい!」と言うのです。
 自分からすれば「なぜいきなり花屋なんだろう?」とまったく今までの工場経営からは結びつかなかったのですが、父には花屋を始めるきっかけとなった事や人との出会いがあったようです。私がまだ返事をきちんとしていないにも関わらず、どんどん準備が進み「もう準備ができたから、いつ会社を辞めてこちらにくるんだ?」という状況になり、完全に私の返事がないままに環境が整っていて、ただただ驚きでした。
 結局、入社した会社を1年ほどで辞めることとなり、まったく知識のない花屋の経営を20歳でやることになりました。まだ仕入れや店舗経営等の知識のないまま「明日、この時間に市場に行って、この人に会ってこい。そうすれば全部わかるから」と言われて地図だけ渡されて。当然、それだけでわかる訳はありませんよね。右往左往しながらの毎日でした。
 しかし、この花屋での経験は私の社会人経験と経営視点という意味では、今の経営にもつながる大きな経験となりました。知らないことばかりなので、どんどん吸収しようとしましたし、わからないのが当たり前なので、何でも聞くことができる。そのすべてが新鮮だったので、若かった自分にとっての知識と経験になりましたし、自信にもつながっていきました。
 この花屋は3店舗まで拡大して3年半くらい続け売上げも伸びていましたが、その頃手伝ってもらっていた母が体調を崩したこともあり、心労を与えたくないという想いもあって閉店することになりました。この時の決断の早さも父らしく、「よし、やめよう」となった途端、3店舗を一気に閉店しました。もう、気持ちがいいくらいスパッとでしたね。
 花屋を閉店すると「今度は私の行先がなくなるなぁ」と考えていると、また父から「島田工業に入れ。手続きしておくから」という連絡があり入社が決まりました。24歳の時でした。
 そういう意味では、工場経営の父の後を継ぐとかものづくりの道に進むという、他の2代目経営者の方々の事業承継とは少し違った形で私は父の会社に入社しました。ですが、私自身は今思えばなるべくしてなったのかなと思っています。

Q.入社の経緯はとても驚かされるお話ですね。入社後はいかがだったのでしょうか?

 それはもう、入社と同時に訳がわからなかった状態でした。最初はやはり周囲もどう扱っていいのかわからなかったということもあったと思いますが、まるで仕事をさせてもらえず、何も教えてもらえませんでした。最初の3日間は、ただただ眺めているだけで、もう身の置き所がなかったですね。そして父と話し合い、具体的に現場に入っていくことになったのですが、その時に自分の得意なことで活かせることがないかという視点で考えました。
 最初に気がついたのは、現場にはものづくりの技術はあるものの、これがシステム的に動いていない。簡単に言えば「ざっくり」という感じで仕事が流れているということです。このままでは、裏付けのないままの仕事が日々続いていくことになると考え、情報処理の知識を活かした経営支援のシステムづくりを始めました。
 受発注から見積り、スケジュール管理に至るまでの書式を明確にし、この運用を全社を挙げて行っていく。最初は現場からの反発などもありましたが、使い続けていくことでその利便性が浸透していき、従業員全体に理解をしてもらえるようになっていきました。
 システム化が進んでいく中で、「これは便利だ」「必要なことだ」ということが理解されていき、信頼関係が築けていったのだと思います。

Q.社長になられたタイミングについてお伺いします。

 私が社長になったのは、2011年です。実はその前から事業承継の表面的な話はありましたが、本腰を入れてということではありませんでした。その中で、父からそのまま私が継いで社長になるということではなく、経営的にも技術的にも安定させるという目的から、父の右腕だった飯野利夫氏に一度 社長になっていただき、自分は常務として支える体制にしようということになりました。これが2007年です。この時の体制は、父 島田利春が代表取締役会長、飯野利夫氏が代表取締役社長、そして私が常務(後に専務)です。
 そして、私は約4年弱の間しっかりと現場を見ながら外部との信頼関係を高めて、2007年に代表取締役社長に就任しました。その際にも飯野前社長には相談役として残っていただき、しばらくの間は私を支えていただいたので、とてもスムーズに引継ぎを進めることができました。
 ただし、会社を取り巻く環境は厳しかったですね。一番大きな取引先だった三洋電機がパナソニックとなり、今までの仕事の流れががらりと変わりました。以前と同じ担当の方であっても、その所属する会社が変わるということはその仕事のやり方も大きく変わります。そこからは改めて仕事による信頼と人間関係による信頼、いわゆる二つの信頼関係の再構築を図ることになりました。この時にトップセールスはとても重要なのだということが身に染みてわかりました。
 それと社長就任直後に発生した、3.11 東日本大震災です。仕事への影響はもちろん、従業員とその家族を守るためにどうすればいいか。本当に悩みながら様々な施策を取り続けました。正解があるわけではない中で、最善と思われることを考えながら進めていったのですが、どうしても自信がない。この時に相談役の飯野氏に自分の考えを話したところ、強く背中を押していただけたことで踏み出すことができました。
 裏話をお話すると、震災直後に私がいろいろな事を考えて動いていると、父が先回りしていたことがあって、「考えることは一緒なんだな」と思う場面が何度かありました。困っている状態で知恵を出していくと、行き着く方向が同じだったんだと思いましたね。

Q.社長になられてから進められたことについて教えてください。

 先ほどの取引先の状況が変わったことや震災と予想外のことが続いたため、私が社長に就任した時は課題が山積でした。ただし、この3.11が私が従業員との会話を増やしていくきっかけにもなりました。元気に明るく声をかけていく。最初はみんな恥ずかしがったこともありましたが、続けていけばこれがコミュニケーションの糸口になっていきます。ここから従業員のモチベーション向上にもつながりますし、一人一人の意識改革にもつながっていきます。顔を合わせることで、その時の様子や体調など、相手を理解できることもたくさんあります。

 これは現在も行っており、今は毎週月曜日に従業員との面談を行っています。全従業員を2つのグループに分けて、隔週で一人約5分の時間を設けて面談をしています幅広い層の従業員がいますが、それぞれが感じていることや思っていることについて話ができる環境ができているということは、他社には見られない島田工業の特徴だと思います。
 それとものづくりの設備を最新にすることも心がけてきました。前社長の飯野氏がとても目利きのできる方で父の時代から設備については全幅の信頼を置いていたので、相談しながら「北関東トップレベルの最新設備力」を目指しました。

 まずプログラミング工程は、設計開発部門として2D、3D CADによる対応により、お客様のご要望に合わせた提案が可能です。
 ブランク工程では、最新のパンチ・ファイバーレーザー複合加工機を自動化システムとして2台導入し、この他にもパンチングマシンも複数台所有しているので、常に最短で安定した様々な材質・板厚に対応できるブランク加工の体制となっています。

プログラミング室

パンチ・ファイバーレーザー複合加工機

 曲げ工程でも自動金型交換装置を持つ最新ベンディングマシンをはじめ、ベンディングロボットシステム、薄板から厚板まで対応できる幅広い加圧能力のベンディングマシンを揃えました。

 溶接工程においては、半自動溶接からTIG溶接、スポット溶接、YAGレーザー溶接と加工製品に合わせた対応が可能です。特にこの溶接工程は、当社の熟練した技術を持つ作業者により、高度な溶接加工ができる島田工業の差別化技術となっています。今後はファイバー溶接ロボットも運用を始めていきます。
 お客様にとって、島田工業の技術は信頼できると思ってもらうためには、最新技術と最新設備は必要不可欠なものだと考えています。

パンチングマシン

ATC付ベンディングマシン

ベンディングエリア

ファイバー溶接機

Q.島田工業では経営理念が明確化されていますね。

 そうですね、私が昨年から進めているのがブランディング活動です。
 特にインナーブランディングを今は重視しており、これが浸透して発展していくことで最終的にはアウターブランディングにつながると考えています。従業員が自信を持って働くことができ、その仕事が楽しいものであれば、充実して満足度の高い会社に成長していくことができる。そういう高い意識に成長していけば、お客様からも選んでいただける差別化できる会社へとつながっていきます。
 島田工業の経営理念は「顧客満足」です。顧客とは、お客様はもちろん、社員、家族、仕入先様、地域の方々、島田工業と関わるすべての方々に満足していただけるという意味です。

【経営理念】
「顧客満足」  ~本当の幸せを得るために~
「顧客」とは、お客様は勿論のこと、shimadaに務める従業員・その家族・仕入先様・地域の方々等、shimadaと関わる全ての方々の事である。もちろん自分自身も「顧客」である。「顧客満足」とは、shimadaと関わる全ての方々と「共に歩み」、WIN・WINになれる関係を築く為の言葉である。「顧客満足」を実践することで「本当の幸せ」が手に入ると信じ、日々生活(仕事)をする。「本当の幸せ」とは顧客と一体となりて、共に成長できる、心の豊かさのある生活のことである。

 この経営理念を元に、島田工業の考え方「shimadaの思考」を整理しました。その上で「品質方針」「環境方針」を明確にすることで、経営も従業員もお客様も私たちの目指していることを理解していただけたらと考えています。
 信頼できる「人」づくりによって、信頼できる「モノ」づくりができる。
 私を含めた従業員全員が、安心して仕事を任せてもらえる、信頼を得るために成長していくための方針として共有しています。
 この一連の事は独立しているのではなく、島田工業の「ブランドストーリー」としてまとめており、夢のある未来を提唱することで、魅力ある会社であることが大切なのだと思っています。

Q.従業員の方々も面白い活動をされていると伺いました。

SMT株式会社「ものづくりアイディアセンター」

 一つは「アンバサダー」でしょう。これは社内の有志で活動しているのですが、SNSなどを積極的に活用して、島田工業の活動やサービス内容などを認知してもらうための活動です。島田工業のものづくりの事例紹介をはじめ、動画による自社製品の紹介からイベント出展情報などを積極的に発信しています。全社員の1/3が女性従業員なのですが、いろいろ目線の異なる提案などがとてもおもしろいと思っています。
 もう一つは、グループ会社のSMT株式会社です。ここは「ものづくりアイディアセンター」として、ものづくりに興味のある一般の方や試作品を作ってみたいという事業者の方を募集し、そのサポートをすることを目的とした会社です。2018年に父が島田工業の会長を退任し、SMTの代表取締役に就任しています。父にとってはものづくりのアイデアや発想を中心に研究開発をするというのは得意分野ですので、とても楽しく取り組んでくれています。
 すでに島田工業で開発した商品としては、「L&Air(エル アンド エアー)」というLEDシーリングライトと天井設置型空気清浄機や、次世代デジタルモビリティ3輪バイク「FUTURE」など、独自の発想による商品の展開を進めています。

LEDライト付天井設置型空気清浄機 「L&Air」

次世代デジタルモビリティ3輪バイク「FUTURE」

 

Q.島田工業がこれから目指していることについて教えてください

 先ほど、ブランディング活動の話をさせていただきましたが、ブランディングの目的は、島田工業の従業員が島田工業を好きになるということです。私自身にとっても従業員にとっても、島田工業という会社のことを誇りに思えることが大切だと考えています。
 特にものづくりとは無機質なものと捉えられがちですが、私自身はそう思っていません。
 作る人の想いは使う人、買う人に必ず伝わる。だからこそ作る人はそこに魂を込める。そういう想いが伝わるものづくりができるようになること、その想いに応えられる人になれるように従業員全員が取り組んでいくこと。それには、経営側もすぐに成果を求めるのではなく、やはり6カ月から2年くらいはかかるということをきちんと認めていくことが大切です。
 現在、海外からの研修生が10名在籍しており、彼らはとてもまじめですがそれだけではなく楽しんで仕事をしてくれています。来月にはさらに4名増える予定なので、そのメンバーにもものづくりの楽しさや想い、島田工業の姿勢を伝えていきたいですね。
 私自身の目標としては、3人の子供たちの誰かが「お父さんの会社、おもしろそうだから自分も入りたい!」と思えるような会社にすることです。自分は今49歳ですが、55歳になるまでに子供たちの誰かに言わせたい。勝手かもしれませんが、自分ではそんな勝負をしているつもりなんです。そして55歳までに誰かが入ってくれれば、自分が65歳になるまでの間にあらゆる経験をしてもらう。そして、私は65歳には会長職になって、70歳には引退しようかなと。
 私が70歳になる2042年の姿を「20年ビジョン」としてブランドストーリーを策定中です。20年後の島田工業の姿を描いたプランは、楽しくて魅力的であること。近日、公開した際には、それを見た皆さんにもそう思っていただけると思いますので、ぜひ期待していてください。

ありがとうございました。


島田工業株式会社 会社情報
【沿革】
・1973年  伊勢崎市日乃出町の関東工業株式会社内に島田工業所を開設
・1976年  伊勢崎市長沼町119の2に工場を建設。空調機の組立梱包・FRPボデー製作
・1976年  架装・搬送機の生産
・1979年  新工場を建設(本社工場)
・1980年  法人組織に改め、資本金1,000万円にて島田工業株式会社として長沼町2202に設立
・1980年  空調機器関連製品の設計・部品加工・製品組立  精密プレス部品の設計・製造
・1980年 
自社企画商品の開発・製造  開発支援業務  その他
・1984年  空調機組立工場新設
・1988年  第一工場を新設、プレス板金加工を開始
・1996年  本社に技術開発部新設、自社商品開発を開始
・1997年  伊勢崎市下蓮町1875に、空調機器製造工場SLA事業所を新設
・2000年  ISO9001認証取得
・2006年  ゴルフボールをスムーズに回収する「ナイスキャッチャー」を開発・販売
・2006年  LED蛍光灯開発・販売
・2007年  代表取締役の島田利春が代表取締役会長に就任
・2007年 
代表取締役社長に飯野利夫が就任
・2011年  代表取締役社長に島田渉が就任
・2011年  クライオポンプ(CCT)生産開始
・2013年  ISO14001認証取得
・2017年  ISO9001、ISO14001をISO9001:2015、ISO14001:2015総合マネジメントシステムへと更新
・2018年  代表取締役会長の島田利春が退任し、子会社のSMT株式会社代表取締役に就任

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