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ー 科学と技術で産業を考える ー

ことラボ・レポート

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ことラボSTI 代表 岩波 徹/「展示会ビジネスの再考」

2021 年 11 月 24 日

 約2年間にわたり、コロナ禍で広い展示会場を使って開催される協賛展示会が開かれなかった。そのような状況の中で 10 月 22 日から4日間、名古屋の「ポートメッセなごや」(名古屋市国際展示場)で開催された《メカトロテックジャパン 2021》は、工作機械を中心とする展示会では約2年ぶりの実機展示会となった。そこで取材して感じたのは、これから展示会の手法が変わっていくのではないか、ということだ。この2年間の経験で、実機を展示しないリモート展示会というものに対する経験を積んだ各社は、リモート展にも良さがあることを再認識して、リアル展示会と合わせて、販売促進のツールが一つ増えた証言していた。これに従来のプライベートショー(個展)を加えて、展示会として合計3つのタイプの選択肢を選べることになった。

 またプライベートショーでは、セミナーを併催して 10 分前後の動画を流している例が多くなっている。この動画もこれからは販促ツールとして充実していくだろう。通信機器も機能が向上し、大量の情報を高速で処理できる5G 時代となり、リモート展示会にはこれまでにない可能性を感じる。

 展示会とは、コンベンションホールなどと呼ばれる施設(展示会場)を利用して、主催者が企画した目的に沿った商品を展示して、そこに主催者が中心になって告知活動で多数の来場者を動員して、出展者と来場者の出会いを演出するビジネスだ。主催者は借りた会場を、小間と呼ばれるスペースで仕切り、出展者を配列する。小間は通常3m×3m を基準としているが、展示会によってはそれよりも小さい場合もある。主催者は借り受けた展示会場のスペースを、期間を定めて切り売りするビジネスだ。時流に合った企画なら、出展者は集まるが、それが外れると「事情により中止します」と、告知しなければならない。

 小間料金が定められているが通常は、そのスペースを借りるための料金で、展示に使う電気代、装飾代、水道代などの費用は別途かかる。初めて出展する参加者が、それを知らずに後であわてることが起きたりするので気を付けたい。

展示会ビジネスの歴史

 ここで展示会ビジネスの歴史を見てみる。明治維新後に海外の先進的な製品を国民に見せ、あるいは国内各地の特産物や工芸品などを見せ、産業を振興させるために開催された「内国勧業博覧会」(1877 年・明治 10 年)に原点があることが判る。さらに戦後になると、戦災で大きなダメージを受けた日本社会を元気にしようと、1954 年・昭和 29 年に大阪で開催された「第1回日本国際見本市」から展示会ビジネスがスタートした。今はない東京・晴海の「国際貿易センター」でも「日本国際見本市」が何度も開催された。人類最初の人工衛星、ソビエト製(現ロシア)の「スプートニク」が日本に来たのもこの国際見本市だった。発想の原点は国や地方公共団体にあることに特徴がある。日本では海外から進出してきた企業を除いて「展示会」を専門に事業展開する企業は育たなかったが、欧米には各種の展示会企画を次々に展開する企業があり、日本にも進出している。

ハードとしての展示会場

 大阪で開催された「国際見本市」から独立して、テーマを絞って単独で開催されてきたのが「エレクトロニクスショー(現 CEATEC JAPAN)」「モーターショー」「データショー(現 CEATEC JAPAN)」であり「日本国際工作機械見本市」だった。多くの展示会の主催者が同業者の結集した工業会であったり、マスメディアや地方公共団体で、発想は産業振興を進める公的機関が中心だった。戦前の近代的な産業の多くが軍需であったことから、多くの人に見てもらうことが前提の展示会が盛んになることがなかった。公共展が開催できるような展示会場も不足していた。最初の展示会「内国勧業博覧会」の会場は上野公園だった。

 展示会ビジネスは戦後に始まったビジネスで、産業史の歴史としてみると比較的新しい。戦後の復興は「神武景気」(1955 年~56 年)、「岩戸景気」(1958 年~62 年)、「いざなぎ景気」(1965 年~70 年)と、好況時の民需を中心に進んだ。産業振興のためには「展示会」が有効な手段だったが、テーマをざっくりと決めただけの企画で動員した来場者数を競い合うような粗削りなものが多かった。

 次に新たな動きが出たのは 1980 年代に入ってからだった。この頃、日本国内では各地に展示会場を伴う大型のコンベンションホールが完成していった。大阪(インテックス大阪、1985 年)、千葉(幕張メッセ、1989 年)、横浜(パシフィッコ横浜、1991 年)、名古屋(ポートメッセなごや、1973 年。1987 年に大増築)、東京(東京ビッグサイト、1996 年)とまさに“建設ラッシュ”だった。時流に敏感な日経マグロウヒル社(現・日経 BP 社)は「日経イベント」という雑誌を発行したほどだ。

 しかしこれらの施設をよく見ると、みな地方公共団体が建てたコンベンション施設だ。いわゆる“箱もの行政”と言われる建物物で、肝心の展示会企画は持ち込まれてくるのを待っていた。中には地方公共団体の第3セクターとなっている施設管理者が主催する展示会もあったが、次第に開かれなくなり、現在も続くのは「日本国際工作機械見本市」(JIMTOF)くらいになってしまった。

 これらの施設は全て、海辺の埋め立て地にあり地盤が軟弱だ。軽い一般消費財なら良いが、工作機械のように何トンという重量のある製品を展示するには制約がある。工作機械の実演には、精度が出ないなどのクレームも多い。切削系工作機械よりも深刻なのが鍛圧機械の展示会だ。何百トンという圧力のかかる加工機だから、成形時に機械がぐらつくようでは正しい製品 PR は出来ない。さらに中型以上の多関節ロボットを動かすと、その動きを支えきれない、など困ったことが起きる。出展者は、その中で知恵をだして展示技術・製品を実演している。

 さらに展示会場の場所が、海浜地区であるために展示場内に「手前と奥」というレイアウト上の問題が発生する。競合製品が多数展示されるときに、来場者が手前は見るが奥には行かない、という現象が起きる。同じ小間料金なのに奥には客が来ない、というクレームが必ず出てくる。それを避けるために主催者は、毎回、出展者の展示場所を入れ替える。すると毎回、小間配置をゼロから考えなければならず、来場者もお目当ての出展者を小間図面から探し出さないとならない。これは非常に煩わしい。ミラノ市内の展示会場で隔年開催される工作機械展 BI-MU 展では、毎回、小間

 位置が同じだ。小さな企業の多いイタリアでは、ショールームを持つ企業は少なく、2年に1度のその展示会で、2年分の注文を取るために出展する。広い展示会場で、出展場所が変わると顧客が、小間にたどり着けないことになり、売り上げがあがらない。広大な展示場の敷地内にある展示ホールには、周囲 360 度に出入り口があり「奥と手前」がないから可能になっている。

展示会のソフトとしてのコンテンツ

 1954 年に戦後初めて大阪で「日本国際見本市」が開かれて以降、そこに参加していた分野が成長していくと独立して、独自の展示会を開催してきた。しかし、日本は産業規模の割には展示施設の規模が小さすぎる、とコンベンションを研究する学者は指摘する。

 私たちに密接に関係がある最大の展示会は日本国際工作機械見本市(JIMTOF)。 これは2年に一度、工作機械業界を挙げて開催される。1962 年から隔年開催で始まった。1998 年までは大阪と東京で交互に開催されていたが 2000 年からは東京のみで開催されるようになった。

 展示会の主役は工作機械だが、初期の工作機械は NC 技術が登場する前で、様々な動きを実現するために複雑な歯車の組み合わせが使われていて、それを理解するためには時間をかけて説明する必要があった。小間での説明時間が長くなり、その影響で会期は 10 日から2週間ということもあった。いまは動きがコンピュータで制御されるために、見た目の構造はシンプルになり、かつての工芸品のような歯車機構は少なくなり、そのためか会期も6日間と短くなった。

海外の工作機械展

 工作機械の本場である欧州では EMO(Exposition Mondiale de la Machine-Outil:世界工作機械展)、米国では IMTS(International Manufacturing Technology Show:シカゴショー:国際生産技術ショー)が開催されており、JIMTOF と合わせて「世界三大工作機械展」と呼ばれていた。最近では急成長している中国で開催されている CIMT(China International Machine Tool Show)を加えて「世界四大工作機械展」と呼ばれるようになった。しかし、このような表現をしているのは日本だけ。1995 年にミラノで開催された EMO 会場で、翌年、日本で開催される JIMTOF の記者発表が行われた。その時は東京ビッグサイトのこけら落としで、日本側は力が入っていたが、出席していた記者から「それほど立派な会場ができたのなら東京でも EMO を開いたらどうだ」とコメントが発せられた。EMO はフランス語で「世界工作機械」という意味なので、そうした発言が出たのも当然だった。

 JIMTOF 大阪は、1998 年の開催を最後に大阪での開催はなくなった。1995 年に発生した阪神淡路大震災の影響で関西地区の産業基盤が打撃を受けたから、という説明もあったが、関西地区に基盤を置いていた家電業界が海外移転で産業が空洞化していたから、との説明もされていた。

 発祥の地である大阪が開催地から外れたことと同様なことが EMO でも起きた。1975 年にフランス・パリで始まった EMO は、パリ→ハノーヴァ(独)→ミラノ(伊)→ハノーヴァ→パリというようなサイクルで開催されていたので、パリとミラノは8年に1回、ハノーヴァは4年に1回という流れだった。その計算で行くと 2001 年の EMO が本来、パリ開催だったものがハノーヴァ開催となり以降、パリでは開かれていない。ハノーヴァ2回→ミラノ1回というサイクルになっている。EMO は欧州工作機械委員会 CECIMO が主催しているが、具体的にはドイツ(VDW)、イタリア(UCIMU)の工作機械工業会が運営に当たる。“世界工作機械展”である EMO が開催されない年には欧州各国で分野ごと、地域ごとの展示会が開催されて目まぐるしい。ドイツでは METAV(工作機械)、EuroBLECH(板金機械)、イタリアでは BI-MU(工作機械)、英国では MACH(工作機械)などがある。

 これに対して米国では IMTS がシカゴで開催されている。EMO が最新技術の発表会という色彩が強いが、IMTS はビジネスショー的要素が強い。広大な国土を持つ米国では、機械化、自動化が進み、JIMTOF や EMO とは異なる。実は IMTS の「MT」が「Machine Tool」(工作機械)の意味から 20 世紀の後半に「Manufacturing Technology」(生産技術)の意味に変更された。CAD/CAM やコンピュータの利用が進み、工作機械展の意味合いが薄れたからだ。20 世紀の終盤になると米国から工作機械メーカーが次々と消えていった。この時期に日本では「米国は脱・工業化を進め、IT 産業にシフトした」と評価されていたが、それは表面的なとらえ方だ。確かに製造業よりも金融ビジネスのほうが付加価値は高いが、軍需や医療のように米国が強い分野はまだ多いことを忘れてはならない。米国でも広大な国土を背景に、各種の展示会が頻繁に開催されている。

 1993 年から北京で開催されている CIMT は、そのときは実は3回目の開催だった。1回目、2回目は上海で開催されていた。上海交通大学出身の江沢民が第5代国家主席になり北京に向かうときに CIMT の開催権を北京にもたらしたと言われている。

 CIMT に限らず現在、日の出の勢いで各種の産業が隆盛期を迎えている中国国内では、中国各地で同類の展示会が多数開催されている。さらに東アジア(韓国、台湾)や南アジア(インド、タイ)でも、国内産業を促進するために展示会が頻繁に開催されている。最近、JIMTOFの課題として海外へのアピールが足りない、海外からの直接出展が少ない、というものがあげられている。だがそれを解決するのは難しい。なぜなら活動的な日本の輸入商社が、積極的に海外の展示会に出かけ、日本にない商材を熱心に発掘して、代理権を得て日本市場に紹介しているから。欧米企業が直接出展する必要を感じないからだ。それに対して CIMT には欧米からの直接出展が多く、JIMTOF にはない華やかさがある。勢いのあるアジア圏の展示会は、一見する価値がある。

 世界の展示会の情報を集めるには日本貿易振興機構(JETRO)のサイトにある「J-Messe」にアクセスすると国内外、業種別の展示会情報が手に入ります。