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キャプテンインダストリーズ 渡辺 敏/【連載#5】「アメリカ市場開拓奮闘記」

2021 年 11 月 11 日

株式会社キャプテンインダストリーズ
取締役相談役
渡辺 敏 (わたなべ はやし)

1932 年 10 月1日生 東京都出身
1960 年 日立精機 入社
1966 年 ギブン インターナショナル入社
1974 年 キャプテンインダストリーズ 創業 代表取締役就任
2021 年 同社取締役相談役就任
1974 年の創業以来、工作機械商品や周辺装置部品などにおいて、世界の一流商品を輸入する工作機械のパイオニア商社。
米国、ヨーロッパ等 世界6カ国で名の知れた工作機械商品・部品メーカーと取引きがあり、国内では抜群の信頼関係を持ち、数千社の取引先がある。


《第 5 回》 アメリカ市場のニーズに応えるには

 アメリカ市場開拓にあたって、価格に次いで大きな問題となったのは、その仕様であった。背の高いアメリカ人に日本の機械は高さが低すぎるという初歩的な問題に始まり、その中身の仕様、主軸速度・送り速度が問題となった。高さは 100mm 嵩上げすることで解決したが、問題は中身の仕様である。当時、日本では鋳物、鋼材でも 45C 程度を削るのが主流であり、それより硬い材料あるいは高速切削が必要なアルミを同時に加工することは稀であった。
 これに反して、アメリカ市場では市場の構成が日本とは大きく異なっていた。それは、自動車産業を中核として平和産業に特化していた日本に対して、アメリカはソ連(当時)との対立の中で、否応なしに軍需産業、それに伴うミサイル開発、さらに競合しながら宇宙開発にしのぎを削っていた。従って機械加工に使用される素材は、通常の鋼材に加えていわゆる各種難削材(スラングでエギゾティック マテリアルと言われた)がその加工の対象となっていた。チタン鋼に初めて出会ったのもこの時である。加えて、当時航空機のボディ、翼の主要材料であったアルミの加工に、主軸速度、送り速度の高速が要求された。

 工作機械の仕様で、主軸速度・送り速度は超低速から高速と、幅広い加工能力が要求され、当時の日本の工作機械の能力では十分な対応ができなかった。従って、アメリカ市場を相手にするには、既存の仕様の大幅な変更が要求されたのである。
 今でも忘れられない一事がある。
 私はある日、ロスの代理店のチーフ・サービスマンに呼ばれた。
 私が目にしたのは、床に広げられた二つのフライス盤の部品であった。一つは K&T(カーニー&トレッカー)社のものであり、もう一つは日立精機のものであった。その部品点数の違いは歴然としていた。
 彼は何を意図したのか?
 その発言は以下の通りである。
 「工作機械は機械加工された部品によって成立している。速度の変換、送りの変換、すべてかみ合う金属部品によって実行される。そのかみ合いは一定の精度によって加工された部品の組み合わせ、その機械的な変速機構によって実行される。それ故、K&T の部品点数がこんなに多いのである。それに引き換え、君の会社の機械は油圧を主体にして速度、送り機構を製作し、その範囲も限られているから部品点数も少ない。これではアメリカでは売れないよ」と。
 彼は言外に、油圧でごまかしていると言っていると感じた。さらに加えて、彼はある部品を指さした。それは調整のためのシムであった。50 数枚あったのである。
彼は、「こんなに多くのシムを使った工作機械は見たことがない。加工精度を適当に妥協し、後はシムで調整して、ごまかしているとしか思えない」と断言した。極微細な送りの調整には油圧では対応しきれないのである。これは、両国の機械の相違を実例により冷然と指摘する以外の何ものでもなかった。私は、悄然と頭を下げるのみであった。

 代理店の設定も徐々に進み、それに伴い販売も紆余曲折を経ながら進行した。先に挙げた4 つの市場開拓の原則が徐々に効果を発揮し始めたのである。後続の日本の工機メーカーも日立精機が設定した代理店に販売を依頼するケースが多かったと記憶している。一例をあげると、カナダ トロントに本社を置くグロス社のケースである。
 多くの皆さんがこの企業をご記憶と思う。

 このような状況の中で、あるネガティブな事態が影で進行していた。当時、日本の切削加工を行う工場にはもうもうたる煙がたちこめていた。クーラントとして使用しているのは油であり、それが切削熱で燃えて煙となって工場内にたちこめていたのである。
 これは当時、機械加工工場を象徴する風景でもあった(工場環境が問題となるのは、ずっと後年のことである)。

 しかし、アメリカではすでに水溶性クーラントが使用されており、煙の舞う工場はすでに過去のものとなっていた。これが日立精機の工作機械にネガティブ要素として襲いかかったのである。代理店の努力で市場に浸透し始めた機械へのクレームが、各地で発生し始めたのである。水溶性クーラントが、ヘッドストック、ギアボックスに浸透し、ベアリング、ギア、シャフトに錆が発生し、機械の故障が頻発し始めたのである。
 これは全社で大問題となり、対策戦略が練られた。結論として、販売機、在庫機を含めて200 台を超えるすべての機械に対策を講じることを決定し、3名のベテランサービスマンを選んで全米を回り、対策を講じることとなった。リーダーとして、工場長が3名を引き連れて渡米した。1963 年夏のことである。

 秋深まる頃、ようやく作業を完了した。私はロスの事務所に全米の代理店の社長を招待し、事の顛末を説明し、最後に次のように述べた。
 「このような未完成の機械を販売することは、当社の趣旨に反する。ついては一旦、アメリカを引き上げて、販売可能な機械を開発し、出直す」。
 この時、一人の代理店の社長が手を挙げて私を制した。
 「ちょっと待ってくれ。私は今日まで多くの輸入機械を販売してきたが、こんなトラブル対応を実行したメーカーに出会ったことはない。前代未聞の事業だ。機械が壊れることはある。問題はそれを直す意図が、あるかないかである。私たちは、君の会社を今後もサポートする故、ぜひアメリカに留まり、販売を私たちに任せてくれ」。

 私はこの言葉に声が詰まり、同時に涙が溢れ出た。まさに日立精機が本格的にアメリカ市場に力強い足跡を記していく始まりの瞬間でもあった。それは、一日立精機にとどまらず、日本の工作機械メーカーのど根性と言ってもよい精神力と、メーカーとして、販売後のメンテナンスサービスに対する倫理感をアメリカ人に知らしめた、日本の工作機械のアメリカ市場開拓史に永遠に残る、記念すべき出来事であった(それは自動車産業がメンテナンス体制を構築するよりも以前のことである)。


株式会社キャプテンインダストリーズ 会社情報
【沿革】
キャプテンインダストリーズの沿革
1974 年 資本金 50 万円、従業員4名で設立 摺動面ベアリング「ターカイトB」の輸入開始
1979 年 厚木営業所・名古屋営業所を開設
1980 年 油・空圧機器用等シールの輸入、販売開始
1982 年 工作機械などの電線、油空圧管等の保護管「キャップフレックス」の製造販売開始
1985 年 キャプテンインダストリーズ台湾支店を設立
1992 年 江戸川区に本社を移転
2002 年 「ローロンスライド」組立開始
2004 年 台湾支店を現地法人 克普典科技股份有限公司に改組
2006 年 本社社屋完成
2012年 堺工場開設 FPMS Fischer Preciseメンテナンスサービスを開始

World-wide Products with Global Support の標語のもと、海外の優れた商品を発掘し日本に輸入するばかりでなく、日本市場に向けた仕上げ・調整さらにメンテナンスも行う輸入商社。また東アジア市場への進出を検討する欧米メーカーの重要なパートナー役を果たしている。

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