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ー 科学と技術で産業を考える ー

ことラボ・コンテンツ

岩波徹の視点

体験的海外事情(グローバル世界観)①

NEW! 2026 年 07 月 22 日

 「グローバル時代」だという人がいるが私たちは“肌感覚”で世界を感じているだろうか?日本人がパック化された海外旅行で世界中に足跡を残してきたが、日本人の国際感覚が優れたものになっているとは感じない。さすがに「外人(=害人)」という言葉は死語になったようだが、数回海外旅行に行っただけとか、ビジネスで海外の訪問先を訪ね帰国時に飛行場で土産を買ってきただけではあまりにもさみしい。かくいう私も、会社が主催する団体旅行の添乗員で北米を訪れたのが初めての外国訪問だった。その後のタイと台湾にも“行った”という事実を積み重ねただけだった。
 しかし 1993 年からビジネス上の交流が始まったイタリアの工業会(UCIMU)、そしてイタリア貿易振興会(ICE・イーチェ:後の行政改革で今は消滅)から多くを学んだ。初めてのミラノ訪問は 1994 年だった。
 この年アフリカのルワンダではツチ族とフツ族の民族対立から始まった大虐殺があった。このとき我が家では台風で倒れたアンテナに替えてケーブルテレビに変えていた。よく聞くニュース専用チャンネル「CNN」とはどんなものだろう、とアプローチするとニュースのトップが毎日「ルワンダ虐殺」で、それが暫く続いていた。地球の上にアフリカ大陸があることは知っているが、ピラミッドとジャングルとサハラ砂漠くらいしか思いつかない。CNNはアフリカやルワンダにかかわりを持っているのだろうか、と思ったが見つからない。結局、欧米社会はアフリカを植民地にしていたから関心があるのだろう、あるいは後ろめたさを感じているのだろうと自分を納得させていた。
 ちょうどそのころUCIMUの依頼を受けてまとめていた市場調査レポートの前半を納品した。すると窓口のICE東京では専門的な内容までは判断できないので秋の展示会《BI-MU》展に招待するから、ミラノでUCIMUと直接打ち合わせるようにと指示された。そのときである。私が展示会と打ち合わせだけの計画を立てていたことを知ったICE東京事務所のボニート副所長が怒り出した。「折角、人類の文化遺産の六割があるといわれているイタリアに招待するのに君は何も見ないで帰るのか」と。当時の私は、仕事以外のことをするのは“さぼる”ことだと考えていた。
 しかし、高校時代の選択科目で「美術」を取っていた私は、二科展の審査員もやっている美術講師から指導するから東京芸大を受けないか、と誘われた。だが 1960 年代半ばの日本は貧しくて「絵描きでは食べていけない」と画家を目指したが夢に終わっていた父からも言われていた。しかい思い出した。若いころはミケランジェロが好きだった。ローマにあるバチカン市国のシスティナ礼拝堂の『最後の審判』を見ようと決めた。しかし会社は“文化”とは無縁の企業でそれを受け入れるような文化とは皆無だった。そこで貴重な広告スポンサーになっていたICE本部を表敬訪問しようと計画を立てた。初めての欧州訪問が一人旅だ。すると“渡りに船”の話が舞い込んだ。
 懇意にしていた工具メーカの広報責任者だった人が1年前にドイツに転勤していたのだが、彼は自他ともに認めるヘビースモーカで、持って行った「ハイライト」が払底し、ストレスをため込んでいるという。そこで彼に「ハイライト」を届けながら欧州の工具業界事情を取材することにした。つまりミラノからデュッセルに行き、そこからローマに赴きICE本部の機械部長ジョルダーノ氏を表敬訪問する一人旅だ。その道中での学びについてはおいおいと紹介するが、この時の経験から今回のテーマである『日本のグローバル化』について検討したい。
 まず 1994 年ということもポイントになる。1993 年のマーストリヒト条約によって確立されたEU(欧州連合)の具体的なプログラムが動き出し“CEマーク”制度がスタートした。「CEマークとはなんだ」と 1994 年の秋には日本の機械業界で話題が沸騰していた。私が 10 月に渡欧することを知った工作機械メーカや工業会から「調べてきてくれ」と依頼を受けた。
 さて 1994 年 10 月1日、ミラノ市内の国際展示場(フィエラ)で開催された《BI-MU》展は初めての欧州の工作機械展で、JIMTOFとIMTS(シカゴショー)とは全く異なる展示会を体験した。これはおいおい紹介するが、依頼を受けた“CEマーク”について会場で質問した。すると驚いたことに出展している企業~主にイタリア企業は「何それ」という返事。多くの出展企業が同じだった。日本で騒がれている理由が判らなくなるほどだった。しかし、上述した通りミラノからデュッセルドルフに寄ると、出迎えてくれた太田氏が、日独商工会事務所に立ち寄り宮井純二事務局長を紹介してくれた。太田氏としては表敬訪問のつもりだったらしいが私は“CEマーク”について質問した。すると「EUが発足して圏内の電機規格を統一しなければならない。多くの項目でドイツの規格が一番しっかりしているが、一部ではスペインやフランスがしっかりしている。それをどうするか議論の真っ最中だ。決まっていないことを外部に発表しないのは当然だ。それより欧州市場が大事だと思うなら何故ここにきて一緒に議論に参加しないのだ」と怒りだした。そのとき私は、外国のシステムに参加しろというのは激しすぎるのでは、と思った。しかしその約半年後、日本でこの考え方を覆す出来事がおきた。
 それは当時、日本で進んでいたCNC装置のオープン化を巡る動きに関するものだ。90 年代にはいると「計算部+アンプ+サーボ」で構成される“CNC装置”のインターフェイスをオープン化しろ、という動きが出てきた。私が広報委員の委嘱を受けていた(財)製造科学技術センター(MSTC)内に研究会が設立された。それを聞きつけたシーメンスのドイツ本社が、その研究会に参加しろと、日本支社に指示を出したのだ。しかしその研究会は「これは日本国内の問題ですから」と受け付けないという。シーメンス日本の当時のCNC担当者が「岩波さんはMSTCに顔が利くでしょう」とカマをかけてきた。しかしそのご仁は輸入協会のパーティなどで「ファナックのお膝元でドイツ製のCNCが売れるわけがない」と大声で言う人だった。「日本市場は無関係でしょう」と嫌味を言うと「本社がうるさいのだ」という。それを聞いて思い出したのが宮井さんの言葉だ。「その市場が大事なら直接調べに来い」と言っていた。一肌ぬごうと思い立ったが直後に「参加を認められた。ありがとう」と連絡を受けた。日本の工作機械は、少ないとはいえ欧州では一定のシェアを占めていた。日本市場におけるドイツ製CNCよりはシェアは高かったと思う。重要な電機の規格がこれから決まる、というのに日本では騒いでいるだけで誰も動かない。日本では売れていないことを自慢している人が、本社の指示で研究会に参加したいと申し込んで来る。ビジネス感覚以前の問題ではないか?
 統合された欧州の電機規格をどうするか、と議論百出のときに、日本が参加していたらどうだったろうか。そのようなことを提案してもグローバル感性の乏しい日本では「商売にならない」との意見が大勢をしめたのではないか?
 蛇足だが牧野フライス製作所の元社長・牧野二郎氏は、言葉に対する感性の鋭い方で、社員が「グローバル」という言葉を使うと「ちょっと待った。“グローバル”と“ボーダレス”はどう違うのか」と質問したらしい。ご本人に確認すると「安易に外国語を使って判ったような気になる風潮が気になるから」との返事だった。本稿では、その指摘を踏まえて“グローバル”について考えていきたい。
 これから日本企業のグローバル化率を高めるための諸問題を検討していく。検討項目は①宗教、②人種、③製造業と働き方、④公共性、⑤権力とマスメディアのどを挙げておく。