ことラボ・レポート
キャプテンインダストリーズ・創業者、渡辺敏氏の足跡
JIMTOF期間中の 11 月7日に都内のホテルでキャプテンインダストリーズ(大磯利之社長)の 50 周年記念パーティが開催された。輸入業を主な業務とする同社にはJIMTOF開催に合わせて多くの海外サプライヤーが来日していたので、このタイミングで開かれた。これまでも周年ごとに記念式典は開催されてきたが今年は事情が異なった。
創業者の渡辺敏・監査役が亡くなった。25 周年、30 周年、40 周年と記念式典と開いてきたが、今回は見送った。海外からのサプライヤー各社に、このJIMTOF期間中に故人を悼む機会をもったのだ。参加者の心境には複雑なものがあった。
渡辺敏には「ことラボSTI」2021 年8月 30 日から「アメリカ市場開拓奮闘記」と題する8回にわたる連載手記を寄せていただいた。日本の工作機械産業がまだ、シム(組立時に精度を上げるために使用する詰めモノ)だらけの機械を作っていた時代に、当時は工作機械産業の本場であった米国に勇躍乗り込んだ伝説中の人である。工作機械産業という、一般人とは縁の薄い生産財の世界だから派手なPRはしていないが、その業績の広さ、深さはもっと多くの人は知るべきだろう。敗戦によりすべてがひっくり返った時代に、米国に乗り込み西欧式のビジネスを身につけた氏には、日本という国を客観的に見る目が備わっていた。
ご本人は「愛国少年」だった、と良く語っていた。愛する日本を完膚なきまでに破壊した「アメリカ」とは何なのか、その目で見たかった。就活時に「アメリカの駐在員にして欲しい」と、条件を出していたというから面接官は驚いただろう。のちに日本工作機械工業会の4代会長になる日立精機の副社長だった清三郎氏(当時)が「面白い男が来た」と採用した。1年経っても、気配が出てこないことに痺れを切らして直談判に及び、1961 年6月 19 日に羽田からロサンゼルスに向かった。高速道路に摩天楼、分厚いビフテキに度肝を抜かれたが、直ぐに現地に溶け込んで縦横無尽の働きをした。
まだ1年生だった彼は現地の販売体制を見直し、積極的に日本にレポートを送ると「まだ経験の浅いのに」と批判的勢力もあった中で「現場を見ている彼からの報告だ」と、役員会をまとめる上司がいて、ロサンゼルスにショールーム付きの営業所を開設することになった。開店すると直ぐに日系人と思しき紳士が入ってきて「看板からすると日本の企業のようだが、外にあるごみ箱は君の会社のものかね」“そうだ”と応えると「ゴミ箱に引っかかって転んだ、といって直ぐに裁判になる国だ。悪いことは言わない。現地の人を雇いなさい」とアドバイスされた。新聞に募集広告を出してやってきた現地の若者の言葉(=英語)がまるで判らず、外語大を卒業したプライドが吹き飛んだ、と笑っていた。
このとき彼我の工業力の差を痛感した渡辺氏は、日立精機の販売を引き受けてくれた中古機械取り扱い企業に助けられて実績を伸ばした。「工業力の差」から生じた厳しい事態に何度も見舞われた。例えば米国では既に水溶性クーラントになっていて、油性を使っていた日立精機製の工作機械では錆が発生するというトラブルが多発した。渡辺氏は、日本からメンテナンススタッフを呼び寄せ納入先に派遣して 200 台を超える全ての機械を修理した。この事態を受け、事務所に代理店を集めて「一旦日本に引き上げて、まともな機械ができたらまた来る」と頭を下げた。しかし一人の代理店の社長が話を遮った。「機械は壊れるものだ。大事なことはそれを直そうとする意志があるかだ。これほど完璧に対応したメーカーは見たことがない。これからも作って我々に売らせてくれ」と。
渡辺氏は米国をこよなく愛していた。このときの経験以外にも伺った話がある。あるとき米国で工作機械に関するセミナーがあった。出席していた渡辺氏を見とがめた講演者が「日本がわれわれの真似をするから困っている」と言い咎めた。講演が終わり質疑応答となり、渡辺氏は講師に質問した。「米国はどこの真似をしたのか?」と。すると講師は言を左右にして答えなかった。そして講演が終わると渡辺氏の席にやってきて「先ほどはすまなかった。我々はヨーロッパの真似をした」と言った。彼らのフェアな精神を経験して、ますます好きになったという。
大学を卒業して1年で渡米した彼は、ビジネスマンとしての基本スキルのすべてを米国で身に着けた。むしろ日本語を流ちょうに話すアメリカ人だったのかもしれない。だからだろうか、イベントでは「津軽三味線」「和太鼓団」「沖縄民謡」など“ニッポン”を感じさせるアトラクションが多かった。
晩年、渡辺氏は「マッカーサーに与えられた民主主義を受け入れただけの日本人は、社会を構築していく訓練ができていない」と嘆いていた。バブル経済が崩壊して、日本の経済が混乱していた頃に『見直せ!和魂洋才』というオピニオンを頂いた。日本式ビジネスを残しながら欧米システムの都合の良い所を取り入れて高度成長を実現した日本だったが「それは狡い」と欧米社会が気づいて日本に注文を付けるようになった。国際社会の中で積極的な活動が求められるようになり、銀行の自己資本比率を規制するBIS規制など、国際的な取り決めがぐいぐいと迫ってきた。次々と対応しなければならない国際的な枠組みにオロオロしているときに取材したのが「見直せ!和魂洋才」だった。
話しは変わる。小和田雅子さん(現・皇后陛下)が皇室に入ると決まった時、経済産業省の半導体担当課長が、ある集まりの中で「おめでたいことだが経産省、ひいては日本にとっては痛手だ。半導体摩擦の緊張した日米交渉の場に小和田さんが通訳で現れると、単なる通訳とは異次元の力を出してくれる。彼女は米国の方言にも通じて、聖書やギリシア神話はもとより北欧神話などに通じていて、交渉相手がすっかり彼女を気に入ってくれるのだ」とお祝いとともに雅子陛下の異次元の才能を褒めた。これを話すと「そこです。私が自分の英語力に限界を感じて、日本に帰ろうと決心したのは」と話された。いま雅子皇后の語学力が話題になるが渡辺さんのレベルもそれに近かった。「会話ができる」というレベルから「相互理解できる」レベルに達するには、並々ならない努力が必要だろう。ビジネスは“売り”と“買い”があって成り立つ。“請求して”“入金する”で関係は終わるが、それでは言われた内容を英語に変える「通訳」と同じだ。相手の文化をリスペクトして自国の文化を、誇りを持って伝えられる。そのレベルのビジネスを渡辺敏氏が実践していたこと伝えたい。