ことラボ・レポート
工作機械製造技術 「学ぶこと」と「真似ること」
日本工作機械輸入協会(以下輸入協会、金子一彦会長)は来年4月に創立 70 周年を迎える。それを記念する式典のための準備が既に始まっている。「ことづくりラボSTI」は、工作機械の輸入ビジネスに浅からぬ縁を持っている。それは、工作機械メーカーは全国に分布しているが、工作機械輸入のビジネスには、外務省、通産省(現・経産省)があり、貿易関係の手続きに便利な霞が関に拠点を構える、つまり東京に集中しているので、輸入協会のメンバーの多くが東京・横浜を中心とした首都圏でビジネス展開をしている。輸入協会の創立 50 周年記念誌『Global Business Half Century』や創立 65 周年記念誌『日本の工作機械輸入の歴史』の制作をお手伝いした経緯もある。その中で気になる言葉を聞き、それをこれからお伝えしようと、本稿をお届けする。
「学ぶこと」と「真似ること」
私が初めてEMO展を取材したのは 1995 年のミラノEMOだった。懇意にしていたドイツの自動盤メーカーの日本法人の社長M氏と、彼の小間の中で立ち話をしていたとき、われわれと展示機の狭いすき間にスーっと入ってきて、スーっと去って行ったビジネスマンがいた。「あっ」と小さく叫んだM氏は「写真を撮って行った。あれは日本人だ」という。「そうですか。韓国や中国かもしれない」と私。「いや、彼らは堂々と撮っていく」とM氏。しばらくすると「写真を撮りたいからカバーを開けてくれ」と、国籍不明の東洋人。その押し出しの立派さに気圧されてスプラッシュ・ガードを開いて中を見せたM氏。将来のユーザーかもしれない。彼が去ると「な? だから日本人は嫌われるのだ」とM氏。「日本人は嫌われているのではないか」ということが心の奥底に住み着いた瞬間だった。
このときミラノEMOの主催者UCIMU(イタリア工作機械ロボット自動化機器工業会)は、展示会運営のスタッフと海外からの出展者、メディアをスカラ座のコンサートに招待した。前年まで続いていた修復工事も終わり、お披露目の意味もあったのかもしれない。広くて高い天井のエントランスには著名な音楽家や歴代の名指揮者の肖像画・顔写真をズラリと並べて飾ってある。招待された客の多くがカメラを出してパチリ、パチリと撮るが警備員(?)と思しき人が「ノーカメラ!」と叫んでいる。欧米では、著作権や意匠権を重んじるためか、写真は気軽に撮れないことは、前年にBI-MU展で経験していたが、当時はまだその感性の違いに馴染めていなかった。聞くところによると8年前に開かれた前回のミラノEMOではカメラは入り口で「一時預かり所」に取り上げられたという。そこに文化を大切にする姿勢を見た私は、このときのレポートに「JIMTOFでも海外からの出展者を歌舞伎座に招待すべきだ」と書いたが、工作機械業界の長老から「そうでなくても日本は嫌われているのだから、そんなご機嫌取りのようなことをすれば逆効果だ」と言われた。日本は嫌われている、ウム~…。
ときは流れて、携帯電話にカメラをつけた日本企業の功績で、いまでは世界中の人が、展示会でもコンサートでもポチポチとやっている。これは日本の技術が、世界を変えた具体例のひとつだ。
さて創立 65 周年記念誌『日本の工作機械輸入の歴史』は、輸入協会名誉顧問の藤田哲三氏が執筆した卒論をベースにして編まれた。この中で戦後の日本の工作機械メーカーは 1952 年から 1981 年まで間に 161 件の技術提携を結び、その相手先は米国 41.6 %、西ドイツ 20.5 %、フランス 19.9 %、スイス 11.2 %、イギリス 3.1 %、イタリア 3.1 %、ベルギー 0.6 %だったとしている。これが基本的な認識だ。
さらに埼玉県の日本工業大学内の産業技術博物館は、NC装置登場以前のいわゆる汎用工作機械を稼働できる状態(動態保存)で展示している博物館として有名だ。産業技術博物館では、かつて『歴史的価値ある工作機械』の顕彰もしていた。同博物館が発行する資料を見ると、藤田氏の論文には出てこない多くの工作機械が登場している。その解説文を見ると、欧米のオリジナル機を「参考にした」「コピーした」「ヒントにした」などと臆面もなく表現している。ここで「真似ること」の是非を議論するつもりはない。産業の歴史の本質から学んで欲しいと思い本稿を書いている。
圧倒的な技術の差
航空機や造船技術など日本の産業史を精力的に取材・出版しているドキュメンタリー作家の前間孝則氏の大作『マン・マシンの昭和伝説~航空機から自動車へ』は、太平洋戦争の敗戦を境に消滅した日本の航空機エンジニアが自動車産業を立ち上げた壮大な物語だ。その中で、戦時中に1万メートル上空を飛んでくる新型爆撃機『B29』に対抗する戦闘機に、ターボチャージャ付きエンジンを開発していた中島飛行機の現場の話がある。その部品を加工するのに米国製工作機械を使わなければ加工できない。「敵さんの機械を使わないと作れないならこの戦争は負けるのではないか」と、現場の工員は率直な感想を漏らしたのだ。“大和魂”では、近代科学技術を結集した戦争に勝てない。
『日本の工作機械輸入の歴史』にはさらに厳しい話が出てくる。
1952 年に米国から工作機械買付調査団が来日した。冷戦の進行とともに自由主義各国の実力の調査に来たが、日本からは1台も購入しなかった。翌年、日本の業界幹部が渡米して、調査団団長だったワーナー&スウェージー社のノーブル・クラーク氏にその理由を資すと「日本はあれでよく戦争をしたな。強い国家は強力な工作機械がつくるものだ」との答えが返ってきた、という。
だからみな必死で学んできたのだ。職場で進めたTQC運動、TQM活動、TPM活動などを通じて信頼される製品を作ってきた。正式な技術提携契約を交わし、対価を支払って技術やノウハウを習得するのが正しい道なのだろうが、資金の乏しい企業にはできなかったのだろう。後ろめたいからEMOで見たように、こっそり盗み撮りしていたのだろうか。
しかし『マン・マシンの昭和伝説』には、日本の自動車産業が、連合軍総司令部(GHQ)により破壊された航空機産業のエンジニアたちが新たに興った日本のモータリゼーションを支えた姿が活き活きと描かれている。そして『CVCCエンジン』や『触媒法』の開発で厳しい排ガス規制(マスキー法)をクリアしたことを「欧米の後追いばかりしてきた日本の産業界が初めて世界をリードした」と誇り高く語っている。
真似ることの功罪
日本製工作機械が米国市場を席巻し始めた頃、米国の展示会でのセミナーを受講した会場で、壇上の米国人講師が聴講者の彼を目にとめ「日本が我々の真似ばかりする」ときつい口調で攻め立てた。質疑の時間になり、その日本人は「米国の工作機械は誰の真似をしたのか?」と質問した。講師の回答は要領を得ず期待外れだったがセミナー終了後、件の講師は彼のもとにきて「先ほどはすまなかった。我々は欧州を真似てきた」と、握手を求めて来たという。
ウルリケ・ヘルマン女史はドイツのジャナリストだ。彼女がドイツの機械産業の成り立ちについてテレビ番組で語っていた。「プロイセンのウィルヘルム皇帝は、王立研究所を設立して、当時国外への持ち出しが禁止されていた英国の工作機械を盗み出し、その研究所でコピーさせていた」とのことだ。だからだろう、欧州の世界的治具メーカーで毎年開かれる営業会議が終わり、打ち上げの会食になると英国のマネージャが必ず威張りだす。「君たちの使っている工作機械は我々が作ったものだ」と。それに加えて計測・測定の国際学会での会長や議長になるのは欧州人が多い気がする。産業のルールは俺たちに任せろ、というわけだ。
この話には続きがある。日本の大手機械メーカーのトップが大型商談でエジプトに行ってこのような話をしたときにエジプトの高官が笑いながら「あなた方が使っているアラビア数字は我々が発明したのですよ」と。つまり、社会を前進させるための“知恵”は、誰が作り出そうと人類共通の財産だ。それは物理や化学や数学などの原理・原則が共通の財産なのと同じだ。『万有引力の法則』にニュートンが特許料を要求したことはないだろう。
輸入工作機械が世界標準で作られているなら、その標準に従わざるを得ないだろう。度量衡が尺貫法ではなくメートル・グラム法が採用されている以上、その世界で頂点を目指さなければ競争は成立しない。そのルールを学び、その枠の中で競争することに何を恥じることがあろうか。95 年のミラノEMOで見た“盗撮者”の国籍は判らないが、そのことを問題化しても“水が高きから低きに”落ちるように、これからも無くなることはない。
10 年ほど前のある勉強会で、これから世界の産業界でその地位を高めるのはインドか中国か、がテーマになった。中国からインドに注目が移り始めていた頃で、インド派に勢いがあったが、中国派の一言で形勢が逆転した。それは「日本の工場は、中国を始めアジア各国にあるが、そこで働く従業員が、自分の工場で作っているものを自分も作ろう、と考えて工具やジグを盗み出すのは中国人だけだ。」との発言だった。なるほどHONDAが中国で同社の二輪車のコピー品を作り続ける中国の企業に、コピー品の製造販売を禁止しても効果ないと判断して、逆に製造ノウハウを指導して、ユーザーが欠陥品を使わないように手を打った。みんな良いものを作りたい。そのためには「真似る」ことも「学ぶこと」も混然一体となってくる。
輸入協会では「技術提携の話を強調すると、日本の工作機械メーカーが気にするから控えめにして欲しい」との声が出たという。それこそ「コピーした」「真似した」から後ろめたいのではないかと勘繰ってしまう。「真似のし合いっこ」はこれからも続く。経験を重ねた大人の思慮で問題を乗り越えていきたい。