岩波徹の視点
社会を動かす人
子供頃に夢見たように生きている人は何人くらいいるだろうか?
思い描いた通りだから偉い、という話ではない。自身も成長するし社会も変わる、成長の過程では予期せぬことも数多く起きるだろう。しかし、中には幼年期の夢に向かって成長していった友達もいた。そしてそれを可能にした環境に思い当たることがある。
1956 年だったと思う。長男でありながら成功した弟たちから疎まれて、実家を飛び出した父がやっと手に入れたのは、東京都住宅供給公社が世田谷区池尻に建設した「都営池尻団地」だった。近所の「池尻幼稚園」に通い、できたばかりの「区立池尻小学校」に入学し、校庭がつながっている「区立池尻中学校」(いまはない。統合?廃校?)に通った。大規模な都営住宅ができたのは、そこが旧陸軍の練兵場だったからで、いまでもそこには「三宿駐屯場」が残っている。
都営住宅だけではない、国家公務員住宅(国金)や自衛隊官舎や大陸から引き揚げてきた人たちの集合住宅も建てられていた。「池尻」はそうした“新興都民”が集う安住の地だった。
都営住宅に引っ越してきた日に、近所の男の子が数人訪ねてきた。地元の子供たちで、すぐに仲良くなり遊びに興じたのは「三丁目の夕日」の世界だった。周囲には建造中の鉄筋コンクリートのアパート群が立ち並び、子供たちの格好の遊び場になっていた。
通っていた小学校は、記憶が定かではないが多分4年生のとき、体育館がある近所の新星中学校の体育館に移動させられた。正面に舞台があり演奏者のためのパイプ椅子やら太鼓や木琴のような楽器も並んでいる。聞くと音楽部がNHK全国合奏コンクール(いまはない)で優勝したという。その凱旋の記念講演会だった。舞台の上には同級生たちも大勢いて、木琴を演奏する上級生の2本のマレットが速すぎて交差しているようだった。
音楽の山本先生が熱心な教師で、新しい小学校の校歌や運動会の応援歌も作曲しただけでなく、毎週木曜日は、月曜日に行われる全校朝礼と同じように校庭で全校合奏会が開かれていた。その取り組みはNHKのニュースでも取り上げられ、全校合奏会が行われているときに上空にヘリコプタが現れ、撮影していき夕方のニュースになったこともあった。私が6年生のころ、ソ連(現ロシア)の作曲家ハチャトリアンが来校した。彼の作曲した『剣の舞』の演奏で、前年も日本一になった音楽部の合奏を指揮しに来校したのだ。その時は、隣の中学校の体育館を借りた。しかし子供心にも“凄いことだ”と記憶に刻まれている。
池尻は新興住宅街であっても、もともとは江戸市中から相模の国・大山詣でに向かう街道沿い(大山街道:現在の国道 246 号線)にある町で、古くから開けており、旧来からの町とも調和はとれていた。小学生、中学生と成長していったが、いまから思うと“オヤ”と感じることがある。それは自分の成績順を非常に気にするグループがいたのだ。私はそこの小学校と中学校しか知らないが、1960 年前半の日本で、そんなことに血道をあげる子供がいたことは事実だ。その子たちは“官舎の子”と呼ばれる近所の自衛隊員や国家公務員(官舎)に住む子供たちで、当然、成績上位の子供たちだった。なかでもすごかったのは自衛隊宿舎で、何棟もある中で1棟だけ小ぶりだが一所帯当たりの部屋数の多い建物があった。所帯数は少ない上級武官の宿舎だった。これは子供にとってつらいだろう。官舎に住んでいる家族は一家をあげてライバル同士だ。「何とかちゃんに負けないで」と尻を叩かれる。中学2,3年生で同クラスのT君は学年で1番。お姉さんは一橋大学に通っていた。授業が終わると 200 m位離れた官舎に走って帰り、夕食まで一眠りして、夕食をとると深夜まで勉強するといっていた。彼は上級武官の宿舎ではなかった。学年2番のM君は4人兄弟の3男で、長男は東大に通っていた。私が高校3年生になったとき東大紛争で入試が行われなかった。翌年、東工大など別の国立大学に入学した者たちは在学のままで東大の受験が許される特例で、T君もM君も東大に入学した。
私の家族は「大学に行きたければ自分で努力しな」という家風で、勉強していても「“七人の孫”が始まるよ」と声をかけてくるような家庭だった。だから家まで走って帰って一眠りしてから深夜まで勉強する、という理由が判らなかった。その頃、官舎の子供たちは親が同じ職場で出世を争っている関係で親に尻を叩かれていて大変だな、くらいにしか考えなかった。自分は将来、何になりたいかが判らないのに「とりあえず東大に入ろう」と考えられる頭脳の持ち主であることが信じられなかった。彼らは中学生の段階では社会に生きる人々の機微や権力構造の全体を理解できてはいないだろう。ましてや男女の恋愛の機微など人生経験など皆無に近い。しかし強い上昇志向で子供時代を生きていく。付き合いの悪い奴だった。
しかも 1950 年生まれの我々の世代が大学受験を迎えた 1969 年の年明けは、折からの 70 年安保闘争の影響で東京大学や東京教育大学(現つくば大学)の入試が中止となる異常事態だった。東大を希望していた彼らはとりあえず東工大(現)や一橋大学に入学した。そして翌年は特例として。国立大学生の身分のままで東大を受験できた。そして私の知っている“官舎の子”たちは、そのシステムを利用してめでたく東大生になったのだ。このことから言えるのは「何をやって社会に貢献するのか」ではなく「何が何でも東大に行く」という姿勢がすべてに優先していたことだ。
結論としていえるのは、成績が良いから東大に入り、その頭をどのように使うかは就職を考えるときに決めればいいや、という人種と、“やりたいこと”“なりたい職業”を決めてその目標に向かって努力する人種がいる、ということ。そしてまだ中学生のときからエリート階級を目指して、その仲間に入った人たちが晴れて社会を動かす人になることだ。彼らはその生い立ちからして社会を動かすのを自分の使命と思っているから、恐ろしいのだ。
いま検察改革が叫ばれているが、大山鳴動して鼠一匹、がいいところだろう。日本の司法界は全く民主化されていない。いま時代劇は全く廃れてしまったが、あの「お奉行様とお白洲」の場面だけは残しておくべきだ。あれこそが今の司法界の縮図だと思う。
民事裁判はかろうじて原告と被告がいて裁判所が争いを裁く構造だが、刑事事件はかなり異なる。江戸時代だったら町奉行がいて与力・同心がいて、その下に岡っ引きがいて司法警察・行政警察を一手に引き受けていた。明治維新でその形式は随分変わった。裁判官とは独立した検察官ができて、被告人を訴追して判事が判断を下す。しかし表向きの改革とは裏腹に、警察と検察は同じ釜の飯を食う仲で、検察と裁判所も“同じ穴のムジナ”だという構造だ。それではいけないと、米国が乗り込んできて制度を変えたが「革命は裁判所の扉の前で止まった」と言われるように、司法改革は中途半端に終わったのが今日の日本の司法界なのだ。裁判官はともかくも検察官はその手に握りしめた“権力”を、自分の思う“正義”のために行使しようと考える。われわれの世界でも、つい最近おきた『大河原化工機事件』は、そんな正義感溢れる(?)権力指向の強い方々が世間を騒がせた事件だった。事件を捏造した警察官も追随した検事もお咎めを受けていない。
太平洋戦争で、日本を壊滅状態に追い込んだエリートが好き勝手に国を動かす日本社会の構造は基本的に変わっていない。それを前提に国民が読むべきだと思う本がある。角川文庫の『NHK取材班編 太平洋戦争 日本の敗因』シリーズ(全6巻)だ。テレビで特番が組まれていたからメディアミックスと呼ばれるものだ。
あの太平洋戦争について国として正式に評価した記録は残念ながら存在しないし、今の「反省しない首相」のもとではこれからも期待できないだろう。タイトルは失念したが政治学者の高坂正尭・京大教授の本を読んだときに「日米が開戦後、米国の工業生産は 16 倍に伸びた」と書いていた。たとえば爆撃機『B-29』の製造を急ぐためにGMに協力を求め、自動車製造のノウハウを駆使した米軍は、分単位であの爆撃機を製造していたという。米国の圧倒的な産業力を冷静に判断できる人はいなかったのか。米国駐在武官の経験がある山本五十六が、どうして真珠湾攻撃を認めたのか判らない。
日本を作った神様は、日本が戦争などしないように島国にした、という人がいるが歴史の事実は真珠湾に突撃してしまった。その角川文庫のシリーズは、NHK取材班がベトナム沿岸に沈没している日本の輸送船団の撮影から話が始まる。昭和 20 年1月 12 日、日本最後の大型輸送船団「ヒ八六」が、制空権を失ったまま日本に向け強行突破を試みて失敗した。テレビでは輸送船のイラストが東南アジアから日本に向かっていく途中で次々に沈没していく様を「見える化」していた。日本の軍人の中には、姿を見せずに水中から魚雷攻撃するなど武士道に反する、などと憤る軍人もいたというから何をかいわんやだ。一生懸命勉強して“国を動かす仕事”についた人々は、それほど愚かだったのか?司馬遼太郎は、戦国時代、明治維新期を書いてきたが、どうしても昭和期を書けなかった、と言っている。
『日本の敗戦』は6巻で構成されているが、これを読むと米国には敵わないし万に一つの勝ち目もなかったことが判る。ちなみに6巻のタイトルのみを書きだしてみると…。
1巻 日米開戦 勝算無し
2巻 ガダルカナル 学ばざる軍隊
3巻 電子兵器 「カミカゼ」を制す
4巻 責任なき戦場 インパール
5巻 レイテに沈んだ 大東亜共栄圏
6巻 外交なき 戦争の終焉
とある。
多くの警句にあふれているシリーズだが、印象的なエピソードをふたつ。まずレーダの精度。このころ開発されたレーダは圧倒的に米国製の精度が高かった。一部には米国並みの精度を持つデバイスもあったが、軍部の無理解で採用されなかった。そのような状況の中で、サイパン島の攻防戦があり、日本軍が航空機の大編隊で米国駆動部隊に向かっていった。すると米軍は 200 km離れた場所で早くも発見。日本側の数も高度もわかったうえで大編隊で待ち伏せし日本機は次々に撃ち落とされた(マリアナの七面鳥撃ち)。
次はセンサの話。太平洋戦争は飛行機の時代に突入したが、日本の対空砲火は直接命中させなければ撃ち落とせない。しかし米軍には砲弾に近接センサを仕込んであり、敵機のそばに行くと感知して爆発した。大和魂は近代科学の前では役に立たなかったのだ。
8月になると、戦争を巡っていろいろな特番が組まれるが、お涙頂戴式のウエットなものがほとんどだ。真剣に過去と向き合って、あの時の客観的な事実をテーブルの上に並べることが必要ではないか。それもしないで靖国神社に行くとか行かないとか騒ぐのは英霊に失礼ではないか。
少しだけ心強い話を最後に紹介したい。あまり有名な本ではないが早坂暁著の『戦艦大和日記』という本だ。早坂曉さんは、不思議な方で、一度機会を設けて紹介したい。
早坂曉さんの晩年の作品である『戦艦大和日記』は、面白い構成で、多数の登場人物の昭和前半の行動を時間の経過とともに記述してあるドキュメンタリーだ。空間的には全く無関係に物語は進む。その物語の主役の一人が山本五十六だった。難しい取り組みだったと思うが、完成を楽しみにしていたにも関われず完結することなくお亡くなりになった。その山本五十六が、とても敵わない米国との戦争を認めなければならなかったのはなぜか。昭和期を書けなかった司馬遼太郎は、なんで日本人はこれほど馬鹿になったのか、と憤っていた。
しかしこの『戦艦大和日記』で知ったことだが、冒頭の東郷元帥の国葬の場面に水野広徳・元海軍大佐が出てくる。彼は命を受けて第一次大戦後の欧州を視察した。戦車、毒ガス、航空機が登場して国民総力戦だった戦場の後を見て、日本は戦争をやってはだめだ、と上層部に報告書を出した。客観的事実を見ることのできた人が、日本にもいたことで少し救われた。平和でないと、日本の製造業は立ち行かない。この国を動かしている人々に、その認識を持ってもらいたい。