岩波徹の視点
前畑頑張れ!の功罪
「ヒトラーのオリンピック」といわれた 1936 年のベルリンオリンピックはいまでは忘れられているエピソードに溢れている。アーリア人種の優越さを示したかったヒトラーの思惑に反して男子陸上競技の 100 m、200 m、400 mリレー、走り幅跳びの4種目で金メダルを取ったのは米国の黒人選手、ジェシー・オーエンスだった。しかしヒトラーがメダリストを招いて開いたパーティに彼は招待されなかった。しかしオーエンスはそんなことは気にしていなかった。なぜなら帰国した彼は、米国で大統領主催のパーティにも招かれなかったからだ。それどころか、彼は生活のために馬と競争する見世物に出ていたくらいだ。彼の自伝には「あれは屈辱的だった」と書いてあるらしい。
そのベルリン五輪では日本女性が初めての金メダルを獲得したので多くの人の記憶に残っている。水泳 200 m平泳ぎの前畑秀子選手だ。彼女の業績は素晴らしいのだが多くの人には「前畑ガンバレ!前畑ガンバレ!」の河西三省アナウンサの絶叫のほうが印象的で、前畑選手には気の毒だ。
この時の放送はネットにも再現されているが、その音声を耳にした方は多いだろう。彼の評価は「どこから眺め渡しても極めて高い」とまで言われている。確かに、感情を表に出すことの少ない当時の日本人が、マイクに向かって叫んでいたのは画期的だが、それを報道姿勢の基本に置いて良いのか?
現在に残る資料によると、当時、ドイツから日本に短波放送を届けるには時間的制約があり、その日は「女子平泳ぎ 200 m決勝」とその前の「男子 800 mリレー決勝」の2本の実況中継が予定されていた。しかし男子 800 mリレー決勝が遅れ女子 200 m決勝が中継できない状況にあった。男子 800 mリレーは優勝した日本が二位の米国に 10 秒以上の差をつけていたが、残された放送時間はあと2分。河西アナは「どうぞ時間が来ても切らないでください」と繰り返し呼びかけたそうで、そのテンションがそのまま女子平泳ぎ決勝に雪崩れ込んだ。スイッチを管理していた役人は、河西アナにほだされたのか、あの有名な「前畑ガンバレ、前畑ガンバレ」「勝った、勝った、勝った」と20回以上も叫んだ声が日本に届けられたという。資料によると「4K時代の今聞いても、涙なしにはいられない河西の実況。日本国民がオリンピックに初めて血をたぎらせた瞬間がそこにあった」とまで書いている。ちょっと待てよ。
先日、久しぶりにクルマに乗り出かけた。クルマの電源をいれるといきなり昂奮した声のカーラジオが流れてきた。それはちょうど春の選抜高校野球が行われていた。高校野球に対する私の考えはこれまで何度も申し上げてきたが、マスコミとくにNHKの異様な取り組みに問題を感じているが、今回は、このラジオでのアナウンサの異様なテンションに驚いたことから考えた。一つの三振、一つのアウトごとに天が落ちてきたように絶叫する。それは自分が絶叫することで野球好きなリスナのテンションがあがると信じているようだった。
報道とは何か、中継とは何か。ベルリン五輪のときの河西アナのように、我を忘れて絶叫することが報道の使命なのか? あの時はテレビのない時代である。現場にいた人が昂奮して絶叫することが報道の使命だったのか? あのレースは結果として前畑選手が二位に入ってマルタ・ゲネルゼン選手とはわずか1秒差だった。しかし「1秒の差」というのは平泳ぎならかなりの差だろう。冷静に「何メートルの差」であること、二位の選手、三位の選手は追い上げてきているのか差が開いているのか、前畑に疲れが見えているのか、を伝えていれば、日本で聞いていてもレースをイメージできたはずだ。ベルリンでリアルタイムにレースを見ていた河西アナは、誰も見ていないレースの様子を伝えることをしていない。鬼気迫る口調で“デッドヒート”を演出したのではないか? あの放送を、アナウンサの鏡のように評価している若いアナウンサがいる。アナウンサの学校では、本当にそんなことを教えているのか?だとしたらとんでもないことだ。 両選手の差をデジタルに表現し、1回のストローク毎にその差が縮まっていたのか広がっていたのか。ゴールまであと何メートルなのか。このテンポで争っていると追い付かれそうなのか、抜かれそうなのか、そこを冷静に使えるのが本当に報道の姿勢なのではないか。冷静であること、客観的であることは現代社会で重要なことだ。
近代社会はデカルトの「我思うゆえに我あり」という客観的な視点でものを見る姿勢から始まった。しかし儒教社会では、客観的なことよりも主観的な価値観が重視される。中国の統計はあてにならないという人がいるが、儒教社会では客観的な事実は大事ではない。「どうでありたい」が大事だ。このことを理解していないと儒教の影響を受けている東アジアでは仕事がやりにくい。韓国の大統領が退任すると警察沙汰になるのは、身内からの要請を断ることは儒教社会ではできないからで、大統領になった途端に“自称親戚”に言い寄られ、ついつい近代社会のルールに反するからだ。
客観的であることを心に留めておきたい。