メールマガジン配信中。ご登録はお問い合わせから

ー 科学と技術で産業を考える ー

ことラボ・コンテンツ

岩波徹の視点

大川原化工機事件に想う

2025 年 08 月 06 日

 あるときナポレオンがコンドルセー夫人を引見して言った。「マダム、私は女が政治に口を挟むことは好みませんな」と。すると夫人は応えた。「閣下それはそうですわ。しかし、政治が女の首を切り落としている以上、女だってその理由を知りたくはありませんか」と。この場合、政治を法律に置き換えても同じだろう。これは私が尊敬している法律家・戒能通孝先生(1908 年~ 1975 年)の『法律入門』(岩波新書)の書き出しの一幕だ。戒能先生は熱血漢の法律家で、農村共同体が伝統的に待つ入会権(共同体の構成員が焚き木などの日用品を採集するために立ち入りできるエリアの利用権)裁判で有名な『小繋事件』の村落側の弁護士となり、訴訟費用をねん出するために自宅を売却した。買主は吉永小百合だった、という都市伝説があるほどだ。
 さてあるとき日工会役員の一人から電話を頂いた。日工会の理事会で、議事録に残る場面で話は一切出ないが、記録に残らないお茶の時間になると一斉に、最近どのようなケースで否認されたか、と情報交換になる。貿易管理の問題だ。
 それがどう考えてみても異様だ、というのだ。関係者に迷惑が掛かるといけないので匿名かつ簡潔にするが、当時は受注額競争でドイツの追い上げにあっており、日工会会員各社がイライラしていた。非ホワイト国に輸出するときは、港に陸揚げしてから運搬とセッティングに関する全ての記録を映像で取らなければならない。どの道を通って、工場のどの入り口から入れて、工場内のどのルートを通って設置場所に運んだか、などなど。この問題は、ある会合で当時の経産省・産機課長と日工会・副会長が直接やりやった。産機課長が「貿易管理を経産省がやっているだけでも感謝してもらいたい。外務省がやったらこんなのでは済まない」と言うと「それもそうだ」と副会長が納得したことで幕を引いた。実はこのテーマを持ち出した理由にピンと来た人がいるかもしれない。あの大川原化工機の冤罪事件である。
 高校生のとき物理と数学が好きだった私は、当然のように「理系コ―ス」に進級したが、具体的に何をやるか、夢はなかった。研究者? 建築家?通信添削と読書で時間だけが過ぎていったが、あるとき母校のハンドボール部が潰れそうだと連絡が入り、私が乗り出したことで“娑婆”に復帰した。そこで学校行政と言う社会の仕組みに直面し、自分は社会の仕組みをまるで知らないことに気がついた。目標は法学部となり遮二無に勉強した。大学に遊びに来た級友たちと違って、猛烈に勉強した。その一環として警察権と冤罪についても勉強した。その時代には「下山事件」「松川事件」「三鷹事件」のいわゆる“国鉄未解決事件”や「八海事件」「幸浦事件」など“死刑から無罪へ”と話題になった事件が多かった。
 さて金属加工機である工作機械は、いつでも軍需利用できる。弾丸は旋盤で旋削加工すればできるし、油圧機器は兵器に必要なパワーを生みだす。だから大川原化工機事件は他人ごとではない。“手柄を上げたい”と熱望する成績の上がらない検事は、貿易管理令違反で家宅捜査に飛び込んでも、正統な職務行為だと言い張ることができる。
 恐ろしい本を紹介する。古い本で重版もされていないようなので図書館で見つけたら読んで欲しい。『誤った裁判』(岩波新書・上田誠吉/後藤昌次郎共著)で8つの事件が紹介されている。
 ①八丈島事件、②幸浦事件、③三鷹事件、④松川事件、⑤二俣事件、⑥八海事件、⑦花巻事件、⑧菅生事件の8件の事件だ。どれも酷い事件で、最高裁でも信じられないような判決を出している。
 ⑥の八海事件は、金に困った主犯が村で金を貯めていると噂されていた老夫婦を殺害して金を奪う。悲惨な現場を見た警察は“複数犯”と決めつけて、金が入って遊郭で遊んでいた主犯を捕まえると“仲間”を聞きだす。本当の“主犯”は、警察に迎合して友人を主犯に仕立て上げ、自分は裁判で無期懲役を勝ち取ると、刑に服して後に出所している。主犯とされて阿藤某が死刑とされた事件だ。冤罪が確定するまでに十数年かかった。②幸浦事件では、知能の足りない“犯人”の自供から、失踪した一家四人が埋められている“場所”が判明した。「犯人の自供から遺体が出た」とされたが実は、前日、警察が発見しており、被疑者の知恵遅れの青年に誘導尋問をかけ、“自供”を装い遺体が発見された、とメディアに発表された。しかし前日の警察による「遺体発見作業」を村人が目撃しており、警察の“猿芝居”がバレてしまった。
 法曹を目指していた時代に、この方面の書物をむさぼり読んだ。光文社の『カッパノベルス』の「八海事件」には今では考えられないが鉈で脳天を割られた被害者の顔写真が掲載されており度胆を抜かれた。こうした一連の“冤罪”は、警察権力の“功名心”“出世欲”“思い込み”など、権力を持った者が振り回してはならないものを振り回したことから始まっている。そして権力欲にまみれた世界の“掟”として、絶対に自らの非は認めない。「自分は正義のためにやっている」と言いだすから手に負えない。
 日本は神代の時代から司法権は独裁者である権力者(=お上)が握っており、その権力の中では“手柄”を上げたものが出世する。しかも江戸時代ではお奉行様の元に与力、岡っ引きがいる構造で、警察権と司法権が同居していた。疑いをかけられたら最後、拷問で捜査陣が描いたシナリオ通りの自白をしないと、苦痛から逃れることはできない。日本は民主主義国家だと思っているならおめでたい限りだ。司法の世界は素人を寄せ付けない、専門家の世界だ。法曹はみな自分をエリートだと思っている。しかしその登竜門のひとつである司法試験では、大学教養課程を卒業してから受験可能な2次試験から世間で認識されている司法試験になる。私が挑戦していた時代と制度は変わっているので深入りしないが、受験生は憲法、民放、刑法、商法、民事訴訟法、刑事訴訟法に加えてあと一つの科目を受験する。「基本書」と呼ばれる理論をまとめた本を頭に入れて法理論を学ぶが、実社会とかけ離れた頭でっかちな法曹が生まれやすい。それこそ青春の全てを基本書に注ぎ込み、理屈っぽい人間が生まれやすい。そんな人間が生々しい人間社会と向かい合うと言うのが今の制度だ。折角、司法試験に合格して弁護士になっても、社会人として人づきあいができず、私の先生は弁護士の退会理由の1位が、弁護士会費の未払いだと聞いた。
 大川原化工機事件は、検事ではなく定年が迫った警察側の人間が“手柄”を立てようとでっち上げた、とネットで騒がれている。そうした組織なので、謝罪を求めても絶対に謝らない。自分は公権力を行使する“免許証”を持っており、謝罪=その組織での“死刑”を意味するからだ。
 こうした事態を防止するにはどうしたら良いのだろう。それは公権力を国民の手に取り上げることだ。単位面積当たりの耕作地から得られるカロリーは、小麦に比べて米作のほうがはるかに多い。ということは多くの人口を養える。しかし田植えや稲刈りは集団で効率よく行わなければならず、その結果、米作を文化としたモンスーン地帯すなわち東アジアでは、専制的独裁者が生まれた。羊に牧草を食べさせて、その肉を食べる欧州では、どこに牧草がありそこに行くかを決断するリーダーを決める世界では民主主義が育っていった。前者をオリエンタル・デスポティズム、後者をヘレニズム・デモクラシーと呼んでいる。戦後の日本は民主主義国家だ、という人がいるが、日本にあるのは似非・民主主義だ。「革命は裁判所の扉の前で終わる」というのは社会学の公理だ。いまでも地域や業界のボスが、専制的に支配を続けている。手柄を上げたい警察・検事の公権力は、批判にさらされるシステムがない。それを批判しなければならないメディアは、フジテレビ事件が物語るように、陳腐化した悪の席でうまい汁を吸っている。