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ー 科学と技術で産業を考える ー

ことラボ・コンテンツ

岩波徹の視点

『坂の上の雲』とビジネスマン ビジネスと文化

2025 年 06 月 18 日

 つい先日、NHKが再放送した歴史ドラマ『坂の上の雲』は、2009 年に放送された全 13 回にわたる大作の再放送だ。明治維新後の日本がどのように近代国家として成長していったかを陸軍の秋山好古、海軍の秋山真之、俳句の正岡子規の伊予松山出身の3人の若者を通してみていく司馬遼太郎の代表作だ。都市伝説だが司馬遼太郎は生前、この物語を映像化することは「軍国主義を称賛することに繋がるから」と禁じていたという。そこら辺の裏事情は知らないが『坂の上の雲』には思うことがある。
 1969 年秋、高校を卒業して進路が決まらない私は町の小さな本屋さんでアルバイト店員をしていた。町の書店の朝は、ニッパン、トーハンという取次店と呼ばれる問屋から、新刊書を詰め込んだ大きな段ボールが数個、毎日届きそれらを開梱して伝票と付け合せることから始まる。そのころ産経新聞で連載されていた『坂の上の雲』が単行本化されたのが入っていた。当時の私は、小説とは純文学であって、物語が中心である大衆文学を評価していなかった。
 それから約 20 年後。いまは社名が残っていない「日立精機」の社長に手島五郎氏が就任した。インタビューに行くと『坂の上の雲』から題材を得たテキストを作り役員会で議論している、とコメントがあった。上記のように本の存在は知っていても読んだことはない。駆け出しの取材記者だった私は正直に「どんな話ですか?」と伺った。帰社してベテランのアンカーにテープを渡して記事化をお願いした。出来上がった記事を見ると、その場で私は「あれは面白いですね」と発言している。びっくりしてアンカーに「読んでいないのに」と伝えると、彼は「あの本を読んでいないで記者ができるか」と叱られた。これは大変! 雑誌が出る前に読まないと、と一気に読んだ。面白かったし感動した。その旨を手島社長に手紙で伝えると、「それは良かったね」と、役員会で使っているテキストの一部を送って下さった。そのテキサスは“家宝”として大事に保管してある。
 この頃“国民的作家”と呼ばれていた司馬遼太郎の作品はビジネスマンに愛読され、手島社長のように経営陣のテキストに利用する企業も多かったという。戦国時代や明治維新期のように多くの“英雄”が登場する時代は、組織と人間関係が複雑で豊富で、物語の素材に困らない時代だ。それ以降は、長編と呼ばれる司馬遼太郎作品はほとんどすべて読んだ。しかし 21 世紀に入ると、世界は大きく変わり司馬遼太郎の生きた時代に比べて社会の仕組みやそれを支える技術が大きく変わり、視野に入れなければならないファクターが膨大に増えて、彼の歴史観では理解できなくなった。その意味では、現代は生きていくためのテキストのない時代なのだろう。
 司馬作品の戦国時代や明治維新を扱った小説類がベストセラーになっていることに比べて取り上げられ方に不満があるのが『街道をゆく』だ。「50 歳になる前に、全 43 巻を読むと、君の人生は違ったものになるよ」とソニーのエンジニアに言われたときは 40 代半ばだった。すぐに取り組み、50 歳を前に読み切った。本当に人生が豊かになった。私たちは学校教育で“社会科”として歴史や地理を学ぶが面白いと感じる子供は少ないだろう。それはリアリティが足りないからだ。『街道をゆく』は「地理を平面軸に歴史を時間軸にして社会を立体的に学ぶことができる。例えば織田信長が浅井長政の裏切りで敗走した“金ケ崎の戦い”では、琵琶湖の西を走る西近江路を使ったが、その描写を街道の地形や植生を踏まえて活き活きと描写しており(第1巻より“湖西のみち”)、その時の様子が目に浮かんできた。50 歳になる前に読み終えた私は大きな財産を得たように確信した。
 しかし、その時はまだ「社会」と「産業」は別物という意識があった。後年、吉川弘之先生に「社会の中で産業を考える」大事さをアドバイスされる前だった。その後、いま振り返ると本当に貴重な体験をした。
 21 世紀に入ると中国では鄧小平の「改革開放」政策(1978 年)が実を結びだして、「世界の工場」から「中国製造2025」を目指すまでに力をつけてきた。「中国を見ないものは日本の明日を語れない」とまで言われるようになった。おりしも中国遼寧省大連に進出した三菱電機がショールームを開設した。そのオープニング式典の取材に招かれた。初めての中国体験だった。現地に着いた夜、現地のスタッフとの食事会が開かれた。テンションの上がっていた私は『坂の上の雲』を読んだ時の興奮を伝えると三菱電機大連の大泉敏郎社長は「折角大連に来ているのだから明日旅順まで行って 203 高地を見てきなさい」と言いだした。「明日はオープニング式典があるので」と言うと「写真があればいいでしょう。◎◎君、カメラを預かりなさい。明日朝ホテルにクルマを回すから」と思いもしない展開となった。
 翌日、旅順港をみて 203 高地に上った。麓には坂道を登る人力車夫がたむろしていたがこの坂道を上から飛んでくる弾丸を除けながら日本兵が上ったのかと思うと胸が熱くなった。頂上には大砲の砲弾を建てたモニュメントがあった。そして旅順港を見てきた。下に降りるときには乃木司令官の次男・乃木保典少尉が戦死した場所に慰霊碑があった。しばしの間『坂の上の雲』の世界に浸った。その足で史跡・水師営に寄った。降伏したロシアのスッテセル司令官が乃木将軍に謁見した場所だ。日本人としては誇らしい気持ちでいたのだがそこに掲示されていた説明文に考えさせられた。中国語、英語、日本語が併記されていたのだがその文面にはこうあった。「1904 年、ロシアと日本が戦争して旅順が戦場になった。2つの外国がこの地で勝手に戦争して迷惑なことだった」と。日露戦争は近代化を目指す日本が必死の思いで戦った戦役として評価されているが、中国にしては迷惑な話だったのだ。日露戦争をそのような観点で考えたことが無かった。しかし世界中で起きている紛争、戦争はいやでも周囲を巻き込む。米国と中国が沖縄を舞台に闘うこともあり得ることに思い至った。だから平和の大切さを真剣に求めるべきだと思っている。