岩波徹の視点
人を育てること
2025 年度がスタートした。沈丁花が可愛らしい花を咲かせ馥郁たる香りを周囲に振りまき“三寒四温”と言われる時期に桜が咲き誇り,いろいろな花が咲き乱れると世界が一気にエネルギーに満たされる。
今年も多くの新入社員が社会人として新たなスタートを切った。入社おめでとうございます。国内外で環境が複雑に変化していく現代社会では、変化のスピードに戸惑う人も多いだろう。今年も、多くの経営トップの方々から入社式でのメッセージを頂いたが、新戦力に対する期待が窺えるものばかりだ。しかし価値観が多様化していく時代だから、中にはアンマッチングに陥るケースもあるかもしれない。そこで今回は、私のビジネスマン人生で力強い応援歌となったメモをご披露したい。私は名古屋に本社を置く出版社の東京支社で採用されたので、入社した会社の社長の顔は知らなかった。入社して数日後に突然届いたのがこの直筆のメモだが、その後に直面した多くの困難を乗り越える原動力になった。必要に応じて「採用広告」を出す出版社と定期採用で入社式を行う企業では条件が異なるが、このような気遣いのできる創業者に出会えたことは幸せだった。
「岩波君へ
貴君の入社を心から歓迎します。
当初は、何かと戸惑い、辛いことも多いことと思いますが耐えて下さい。受け入れる側として 50 %の責は果たします。
なお、貴君の持ち味、才能などが存分に発揮できる職場でありたいし、貴君のそれらがさらに大きく成長することを願います。英語力を伸ばし、その有意のスタッフとなることも結構ですし、いろいろな活躍の場が考えられます。
いちど直接語り合う機会を持ちますが、いまはスケジュールが詰まりすぎています。東京支社スタッフに可愛がられるよう、あくまでも自分を大切に、そして人間的素直さを持ち続けて下さい。
取り急ぎコメントまで――
経営者と新入社員と出会いが、組織を機能的な有機体として成長に繋がるには、これまでのような関係を前提にしていては、いまの時代では力不足だ。ここで私が出会った名経営者から受けた心に残るエピソードを紹介する。言うまでもないが、これは正式な取材で確認したものではなく、あくまで個人的な経験談として受け止めて欲しい。
ファナックの実質的な創業者・稲葉清右衛門氏は、2020 年 10 月2日に老衰のために永眠された。厳しい経営者と言うイメージを持つ人が多いが、幸い私は氏の謦咳に触れることができた。有名な「頑迷な技術者から頑固な経営者へ」というエピソードは多くあるがその一つだ。
電電公社がNTTになったとき真藤恒社長がINS(インフォメーション ネットワーク システム)という概念を打ち出した。固定電話は相手と繋がったときは「もしもし」と仕事をするが、それ以外は何も仕事をしていない。これは勿体ない。その回線を使って“情報”を送ろう、ということだったと思う。ファナックの若手エンジニア達も感じるところがあり、CNC工作機械に使われているコンピュータを使って情報のネットワークを作ろう、と研究を始めた。それを知った稲葉氏は「ウチはサーボモータで社会に貢献する企業だ。そんなことは富士通に任せておけ」と禁止した。その判断を「頑迷な技術者から頑固な経営者」と、稲葉氏の著作で表現していたことを後で知った。
稲葉氏の著作『黄色いロボット』(日本工業出版社 1991 年)の 27 頁に出てくる言葉だが、そこでは技術者として“物言わぬ機械を相手にしていた”から頑迷な性格だったが、事務部門からの助言のおかげで立ち上げて間もない制御機器事業が赤字から脱却できた。そのときの経験から「頑迷な技術者から(角が取れて丸くなり)、頑固さだけが残った」とユーモアあふれる表現で述べている。
その稲葉氏は、社員が 1000 名を超えるまでは、全社員の顔と名前を憶えていて、月々の給与は直接本人の名前を読み上げ手渡ししていた、という。そして税金を納めることと社員に給与を払うことが大好きな経営者、と社員から聞いたことがある。頑固さに焦点が当てられがちだが、社員から慕われ求心力を発揮していたのは、こうした心遣いが生み出していたのだろう。
ここで“税金を納める”ことについて付言する。ファナックがヘリコプターを所有していた頃、経産省の産業機械課に新任課長が就任すると、そのヘリコプターを使って忍野村の本社に招待して、工場見学を実施していた。知人から、稲葉清右衛門氏は経産省をとても大切にしているが、なぜだろうと問われたときに次のように回答した。「それは昔、日本のコンピュータ業界が、米国の門戸開放要求、すなわち貿易自由化を巡り2年間の猶予期間を米国に了承させ、守ってくれたことへの感謝の気持ちの表れではないか」と。これはのちに大分県知事となり「一村一品運動」をおこした平松守彦氏が、通産省重工業局電子政策課長兼情報処理振興課長時代に、池田敏雄氏(富士通)を産業界のパートナーとして、国内コンピュータ業界を米国からの攻勢から守ったことに由来している。あのIBMから日本のコンピュータ産業を守ったのは、間違いなく通産省(現・経産省)だった。
温厚なイメージを全身から醸し出していたミツトヨの沼田智秀相談役も既に他界されてしまった。同社は仏教の普及に尽力しており、そのために利益の一部を宗教活動に当てているために株式を公開していない。ビジネスホテルなどに置いてある『仏教聖典と英訳大蔵経』は、ミツトヨの関連団体・公益財団法人 仏教伝道協会が配布している。港区芝にある『仏教伝道センタービル』で会議を開いたとき、上の階に移動することになりエレベータホールで待っていると、小柄な沼田会長が、階段を一段飛ばしで駆け上がっていった。それには度肝を抜かれた。
その建物の会議室で 1990 年頃に、東京地区の機械工具商社の次世代を担う若手経営陣が集まり“勉強会”を開いていたときだ。その時、講師をお願いした沼田会長が、メンバーに経営者としての心構えを語った。まだ若かったころ、給料日の前夜は会社の金庫に社員の給与に引き当てられるだけの現金があるのか否か不安で眠れなかった、と吐露された。そして「経営者は大変だ。私はメーカーのトップだが、自社の商品がいまいくつあるのか答えられない。あなたたちは自社の取り扱っている商材を全部こたえられるか? と質問して鋭い視線を参加者たちに向けた。あのときの鋭い眼光はいまも忘れられない。自社の全体像をしっかり頭の中に整理していますか?
牧野二郎氏は、言葉に対する感性の鋭い方だと思っている。私の自宅の最寄りのJR辻堂駅の北にあった関東特殊鋼の工場跡地がショッピングモールとなり『テラスモール湘南』と呼ばれるようになった、と牧野さんに申し上げた時「エ~、“辻”に“お堂”だろ? そんなハイカラな名前を付けるのはおかしいよ」と言われて二の句が継げなかった。
ある金型メーカーの二代目が「工作機械の営業マンは詐欺師だ」と怒っていた、と牧野社長に申し上げたとき「それは由々しきことだ。その人に会いたい」と言われて驚いた。その金型屋さんにはMAKINOのマシンは入っていなかったと思う。だがこの件は“工作機械産業にとって”由々しきことだ、とおっしゃる。新横浜にあるその金型屋さんで対面となったが、私には衝撃の発言が飛び出し、そのショックで前後の話は記憶に残っていない。それは「マシニングセンタでは真っすぐ穴は開かない」というものだ。牧野社長が言いだしたとき思わず「作っている人がそんなことを言っていいんですか?」と聞くと「本当だから仕方がない」「では真っすぐ穴を開けるにはどうすればいいのか」「ボール盤で応力を感じながらゆっくり刃を降ろしていくしかない」と。これを聞いていた金型屋二代目の若社長は、すっかり牧野社長と意気投合。両者の対談は無事に終わった。
正確を期するために書き加えるが“真っすぐ”というのはミクロン単位の話で、一般人の世界では真っすぐで問題はない。
お三方のエピソードでお伝えしたいのは、会社と社員を思う強さは稲葉清右衛門氏から、トップを務める覚悟は沼田智秀氏から、企業人でありながら産業界全体を考える視野の広さは牧野二郎氏から感じ取って欲しい。
母親が子供の進路に口を出す時代になり、大学関係者は高校生に加えて親世代とりわけ母親に配慮しなければ工学部を目指す高校生が少なくなる、と心配しなければならなくなった。製造業はキツイ、キタナイ、キケンの“3K職場”だと、バブル経済時代にマスコミが騒いだことの影響を母親たちが受けている。新誠一・電気通信大学名誉教授によると、大学が意識するのは、“高校生に好かれる大学作り”だが、そのとき母親の存在も意識するという。製造業に進もうとすると“3K職場”の悍ましさに影響されて、子供の幸せを願う気持ちが募ってきて、別の道を勧めると言う。
私は“3K職場”を逆手に取り、好奇心、向上心、向学心の“新3K職場”を提唱したい。これに賛同してくれた関係者は多かったが、ある企業の若いエンジニアから「岩波さんは今の若者を判っていない。彼らに“好奇心”などありませんヨ」と、簡単に否定された。そうかもしれない。しかしそれなら好奇心の前提となる条件を考えてみた。それは「観察力」「感動する心」「表現する言葉」の“新々3K職場”を提唱したい。言葉遊びになってしまったが、現場で創意工夫する姿は、周囲の人に感動を与えることは間違いない。
「100 年に一度の変化の時代」と多くの人は言うが、強い心で臨めば乗り越えられる。頑張れ、新入社員諸君!