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ー 科学と技術で産業を考える ー

ことラボ・コンテンツ

岩波徹の視点

スポーツと社会

2024 年 08 月 07 日

 現在開催されているパリ五輪の報道で日本のメディアは「これでもか!」と“感動”を押し付けてくる。などと言うと“アンチ五輪”の烙印を押されそうだが、中学2年生の時に見た東京オリンピック(1964 年)で、身体を動かすことの素晴らしさに目覚めて以後は、意識してスポーツに触れてきた。そんな私が今回気づいたのが、社会とスポーツの関わり方だ。
 敗戦後 19 年の 1964 年、日本は「もはや戦後ではない」(1956 年「経済白書」)と宣言していたが、「経済大国」とは程遠い状態だった。メディアは無責任に煽るだけで、科学的な裏付けもない“○○ニッポン”を連呼する。このときの東京五輪では、終戦直後に全盛期を迎えていたが五輪参加が許されなかった水泳の古橋広之進(フジヤマのトビウオ)と橋爪四郎の活躍を根拠に“水泳ニッポン”を連呼していたが、東京大会で期待の山中毅も田中聡子も、直前のローマ大会さらにその前のメルボルン大会でメダルを取っていたが既に全盛期を過ぎていた。米国が圧倒的な強さで、特に自由形のドン・ショランダー(18 歳)は金メダルを4個獲得していた。毎日の表彰式で演奏される米国国歌を「水泳の歌」と子供たちが言うほどの金メダルラッシュだった。そのなかでアナウンサが“水泳ニッポン”を連呼していたのは子供心にも異常さを感じ怖くなった。水泳の最後の競技は男子 800 mリレーだった。第4泳者まで3位を維持していたがゴールするまで「水泳ニッポン」を連呼していたアナウンサは、ゴールすると「日の丸が上がる~」と絶叫した。やっと上がった日の丸は、長く畳まれたままだったので、折り目がキチンと残っていたことをハッキリ覚えている。
 同じようにマラソンの円谷幸吉選手が、国立競技場に2位で戻ってきたが英国Bヒートリー選手にゴール 300 m手前で抜かれ3位になった。円谷幸吉は、次のメキシコ大会の直前に自殺してしまうが、その理由の一つに国民の期待を裏切ったことを悔やんでいたことも含まれている。それにしても彼の遺書は何度読んでも泣かされる。
 スポーツの世界の基準は判り易いのに、選手の環境を巡っては“不可解な大人”が大勢出てくる。喫煙・飲酒の未成年選手を選手団から外したり、負けて大泣きした柔道選手に“武士道”を持ち出したりする。タバコが身体に悪いことは誰でも知っているし、体育界のOBが「体操選手は喫煙者が多い」と開き直ったのも驚いた。「技だけ教えて健康管理は選手まかせ?」「十代だけでチームを結成して、あとは放任?」。日本を背負って外国に戦いに行く選手と同じような環境に置かれ、期待応える努力を知ったうえで“武士道”を論じるのか? 五輪で行われるのは「JUDO」であり「柔道」ではない。そんなことでは“水泳ニッポン”の過ちを繰り返す。それにしても今回の騒動で、日ごろは目につかない“スポーツ界を牛耳る大人たち”がいかに多いかが判った。日大事件の元理事長のような人が権力と利権を握っているのだろう。
 平日の朝は出勤準備で忙しいからビジネスマンは、NHKの連続テレビ小説(朝ドラ)を見る余裕はないと思う。しかし現在の『寅と翼』は女性弁護士の話で、戦後の新憲法を巡る興味深い内容だ。法律といえば『六法全書』の世界とは別に“法社会学”の世界がある。そこではゲマインシャフト(共同社会・情実社会)とゲゼルシャフト(利益社会)という研究テーマがある。ドラマの主人公は昭和 20 年代の後半に実務を習得するために地方の裁判所に赴任してゲマインシャフトにどっぷりつかる。「持ちつ持たれつ」と地元の弁護士が迫ってくる。「泣く子と地頭には勝てない」「長いものには巻かれろ」の世界だが、実力社会のはずのスポーツの世界でも今回の騒動でゲマインシャフトが生きていることを再認識した。
 製造業界でも、科学と技術は客観的な世界で「ゲゼルシャフト」のはずだが、学会や工業会は「ゲマインシャフト」で、運営は「長いものには巻かれろ」である。日本学術会議が申請した新会員候補のうちの6名が任命を拒否されたのは「長いものに巻かれ」るのを拒んだからだろう。電気工学の某大学教授(私学)が「日本の学会は旧帝大が仕切っていて、私学系の研究成果はなかな評価されない」と憤っていた。日本では人気のないある球技は東京教育大学(現つくば大学)系と日本体躯大学系が主導権争いをしてまとまらないことが原因だと言われている。ゲマインシャフトのオンパレードだ。
 私たちの社会は、家族、学校、メディア、企業、産業、スポーツなど様々なモジュールで構成されている。スポーツと社会の関係は、まだ稚拙だったことが判ったが、製造業と社会の関わりも未熟だ。ドイツが主導している『インダストリー4.0』の大元は、吉川弘之東大名誉教授が 1980 年代に世界に向けて提唱したIMS(インテリジェント・マニュファクチュアリング・システム)だが、「製造技術を人類共通の財産に」という壮大な理念を、日本人は受け止められなかった。支援の見返りを求める霞が関の圧力で、本部の『CIMセンター』は東京・赤坂からドイツ・シュツットガルトに移り『インダストリー4.0』に展開していった。日本の産業界が社会とのつながりを強く持っていれば、このような事態にはならなかったのではないか。『IMS』を推進する主体は、経産省では大きすぎるし工業会・学会では小さすぎる。この国の『公共性』の底の浅さに原因があり、公共性の構造改革を進めていかないと、日本の産業界は 21 世紀を生き延びることができない。時代が変わると言う人が多いが、公共性にメスを入れないと変わることは難しい。