ことラボ・レポート
作家・元旋盤工 小関 智弘/【連載#2】『機械にニンベン(人偏)をつけて働くんだよ』(後編)
小関 智弘
1933 年生まれ 東京都大田区出身。高校卒業後、50 年間余り複数の町工場で旋盤工として働くかたわら、1975 年に『粋な旋盤工』を発表。
1981 年に『大森界隈職人往来』で日本ノンフィクション大賞受賞。
2003 年には科学技術普及啓発の功績で文部科学大臣賞受賞。
2004 年に『職人学』で日経 BP Biz Tech 図書賞受賞。
主な著書に『粋な旋盤工』(風媒社、1975 年、現在は岩波現代文庫より出版)、『大森界隈職人往来』(朝日新聞社、1981 年、現在は岩波現代文庫より出版)、『職人学』(日本経済新聞社、2012 年)『どっこい大田の工匠たち』(現代書館、2013 年)、『町工場のものづくり』(少年写真新聞社、2014 年)など他多数。
「NC旋盤に挑む」
ベトナム戦争も終わって、戦後最大の不況がやってきた。
日特の下請け工場が潰れたのが 1976 年だった。
工場に出入りしている工具店の人が、晴海で開いている工作機械の見本市の招待券をくれた。
失業中をさいわいに覗きに行った。生まれて初めての NC 旋盤の実演を見てびっくりした。
ハンドルのない旋盤が、黒い紙テープに打ち込んだ小さな孔の配列を読み込んで自在に動き、バイトを 3 本、4 本と自在に交換しながら、たちまち一つの部品を削りだしてしまった。10 年余り一つの工場に閉じこもっていたわたしは、まさに故郷の浜にあがった浦島太郎だった。興奮して 3 日間通い詰めた。
職安に行って尋ねると、当時東京で NC 旋盤があるのは八王子の職業訓練校のみだという。訓練校にいったら「アナタほどの腕をお持ちなら、NC 旋盤を持っている工場に就職して働きながらマスターしたら」と言う。大失業時代に、それは絶望的だった。でも縁あって、NC 旋盤メーカーで一週間の NC 旋盤の基本的な講習を受けることができた。すると、そんなわたしのことを伝え聞いた、羽田にある町工場から「ウチの若いのが NC 旋盤を使わせたら胃潰瘍になって辞めてしまったので、よかったら来てみないかい」という電話があった。
篠木さんという工場主は、すでに NC 旋盤をマスターしているからなんでも教えるよという。渡りに船で、わたしは無給の雑用工として働かせてもらいながら、篠木さんのプログラムを使って NC 旋盤で加工する手伝いをした。夜は家でプログラムの練習をする。生まれて初めて電卓を使う。当時のプログラムは、三角関数やピタゴラスの定理を使って計算しないと不可能だったので、息子の「チャート 数1」を借りてウンウンうなりながら計算した。
篠木さんの工場には3ケ月世話になった。別れ際に篠木さんはわたしにこう言った。「数値制御の機械がどんなに進んでも、人間の手と頭より優れた制御能力はないってことが、あなたにもいまにわかりますよ」。
失業保険が間もなく切れてしまうので、また職安の求人カードをめくった。不況は続いていたが、ようやく一枚の「NC 旋盤工募集、中習工も可」というカードを見つけた。紹介状を書いてもらって、その足でその工場に行った。下丸子という多摩川沿いの町にあるその工場の松田社長は、わたしに「それだけの熱意があるのなら、明日からでもいらっしゃい」という。見習中だから中習工というらしかった。汎用旋盤なら 25 年経験したが、NC 旋盤は初めてだから月給はその時職安から支給されていた失業保険と同じだったが、我慢して働いた。
芯間3メートル、ベッド上の振りが 800 ミリという大型の NC 旋盤が1台あって、社長の松田さん親子がその機械をマスターしているが、20 数名いる機械工たちはみな尻込みして、旧式の機械からはなれたがらないという事情があって、わたしが採用されたのだった。社長親子は近いうちにマシニングセンタを導入する計画だという。「うちの社長は機械道楽だから困るんだ」新入りのわたしに最初に声を掛けたのは、NC 旋盤の隣で汎用旋盤を使っている男だった。
ずいぶん慎重にやったつもりなのに、その工場で最初の1個をオシャカにしたわたしに、松田さんは「やりましたか。いや私なんか、何回オシャカにしたことか」と笑っていた。何日かして仕事に慣れると、「これひとつ、自分でプログラムして削ってみませんか」と渡されたのがプレス機の部品だった。それがなんとかうまくいくと、次から次へといろいろな加工を任される。「こんなもの、あなたなら隣の汎用旋盤で削れば朝飯前でしょうが、でもたった1個の注文でも、面倒だろうけど NC 旋盤で削ってください。いずれは、NC の時代になります。それまでに NC 加工のノウハウを蓄えておきましょう」。大型の NC 旋盤1台しかないから、手のひらにのるような小さなものでも、100 キロ以上もある大物でも、その機械で加工した。町工場にはまだめずらしい時代だったから、近隣の工場のオヤジさんたちが見学に来て、わたしの後ろに何時間も立っては、「ほう、凄い機械ができたもんだねぇ」と感心して帰っていった。でもまだ、「こんな機械、町工場には猫に小判だよ。まあ、俺の目の黒いうちは汎用機はなくなりはしないさ」と、横目でにらんでいく男も多かった。
「その一瞬が好きだから」
5年、10 年するうちに、わたしの職場には2台、3 台とマシニングセンタが導入され、そのつど長年勤めていた機械工が辞めていく。やがて近隣の町工場もどんどん NC 化され、大きな工場には産業用ロボットが導入された。
かつて自動車部品の下請け工場だったが、工夫をするたびに工賃を切り下げられて、金型や治具などの多品種少量生産に切り替えたのだという松田さんは、自分の工場にあるすべての機械を使い熟し、マシニングセンタもマスターしていく。そのくらいだから世間の工場から嫌がられて、「なんとかして」と手土産付きでやってくるような難加工ものを好んで引き受ける人だった。原子力発電所の部品が来たかと思えば深海艇の試作品、ミサイル部品のダミー、やがては宇宙衛星の部品かと思えば、遊具機械やシュウマイの包装機の試作品なんていうのも来た。加工材料も金属だけではない。ガラス繊維やナイロン、超硬バイトがすぐに傷んでしまうようなカーボンを削って機械の周りが真っ黒になったかと思えば、翌日にはアクリルを削ってあたり一面雪が降ったようになる。
そんな仕事が面白くて、10 年、20 年、わたしは NC 旋盤を使い続けた。ふと振り返って、自分はNC職人だと思った。
あるとき名高い大手メーカーから、水力発電用の水車の縮小モデルの加工依頼があった。本物は直径が 10 メートルにもなるものがあるという。水車はダムが変わるごとに羽根の形状も変わる。
NC 旋盤でおおよその形に削って、5軸制御の機械を持っている会社で羽根の形状に加工したものが再びわたしのところに戻ってくる。最後に加工歪を取って仕上げとなる。運んできた男が「ここまでの加工賃で高級車1台買えるんだってよ」なんて言う。そこまで出来ているからだろう。そういう仕事はきっと特急でやってくる。トラックを横づけして待っていることもあった。
NC 旋盤でしか不可能な、その水車の羽根の断面を 0.5 ミリほど削って仕上げるのだが、そこでミスをしたら「高級車1台買える」ほどの損害だという。それに何よりも、相手は手ぐすね引いてテストを待っているので、ミスは許されない。プログラムにミスはないか、バイトのセッティングは、と何度も念を押して、ようやくスタートボタンを押す。
どうやら無事に削り終えると、羽根の断面に紅明丹を塗る。そこに、あらかじめ作ってある蓋を押し当てて、はずして蓋の内側を見る。蓋に羽根の断面がそっくり、美しい花模様の曲線を描いてくっきりと浮かんでいる。ドンピシャリだ。水も漏れない正確さに仕上がった。緊張がほぐれて肩の力が抜ける。半世紀に及ぶ旋盤工暮らしの苦労が報われた思いがする。「その一瞬が好きだから」というタイトルで、わたしはある雑誌にその体験を書いたほどだった。
そのようにして、わたしのNC旋盤工暮らしは 25 年間続いたのであった。
「ものづくりの最前線を生きる人たち」
わたしは、日本の産業構造の最底辺で、18 歳から 50 年間、旋盤工として働き続けた。
そして、大きな企業の人たちから見れば吹けば飛ぶような小さな町工場の人たちが、まさに「機械にニンベンをつけて」働いて、日本の産業を下から支えてきた姿を見てきた。
技術的には決して最先端ではないが、その技術を発揮してものづくりの最前線の役目を果たしている姿をたくさん見てきた。ずっと旋盤工として働きながら、わたしはそれらの工場を訪ね歩いて、その人たちの姿を書いてきた。
世界一精密な工作機械や測定器、スペースシャトルに搭載された特殊カメラや脳外科手術用機械、惑星探査機はやぶさだって、町工場の知恵と技を借りなかったら作れなかったという。日用品だって、例えば痛くない注射針や、指を切る心配のない缶詰の缶を世界で初めて開発したのは小さな町工場だった。
「むずかしい仕事というのは、やればやるだけ技術があがります。ウチの現場の人間はそれだから愉しいと言っています」。
「機械が出来るということと、その機械を使ってその人が作れるのとは別ですよ」。
「どうせ同じ一日8時間働くんなら、ふて腐ってやるより、楽しく働くほうがいいに決まってるじゃん」。
「こんなもの作れないかと相談されると、よしやってみようかと、ついその気になっちゃうんですよ。目の見えない人のための筆記用具なんて世界にないもの。それならやってやろうかと」。
「知的と言われるものを、学者さんは頭脳でしか育たないと思っている。上等な知は、手や体を通して育つ。その方が本物じゃないかなあ」。
「ローテクがきちんとできない人には、ハイテクなんてできるわけがないさ」。
並べれば際限のないこれらの言葉を、わたしは訪ね歩いた工場の人たちから聞くことができた。
このような人たちの言葉に支えられて、2002 年、松田さんの工場が長引く不況に耐えきれずに廃業するまでの 50 年余り、現場に立ち続けることができたのだった。
ものづくりの世界で技術革新とか合理化を言う時に、頭でっかちの学者や評論家はすぐにロボット化や無人化をイメージする。その人たちの頭の根底には、人間は怠けやすい、すぐに疲れる、失敗しやすい、不平を言う、という思いがある。人間をマイナスのイメージで考えたがる。最近の工作機械に比べたら古典的な NC 旋盤を使って 25 年間働いたわたしは、たしかに人間にはそのような弱点があるけれども、それでもやはり人間の頭と手こそが無限の能力であり、ものづくりを支えている。だから、人間信頼の職場、人間信頼のものづくりを育てることこそ大切なのだと信じている。