岩波徹の視点
工学教育はリセットできるか
以前アップした早稲田大学の浅川基男名誉教授の「日本のものづくりはもう勝てないのか?」(連載)では「ものづくり」の現場が劣化しておりその原因として工学部のパワーダウンがあげられていた。しかし約 20 年前、(財)製造科学技術センター(MSTC)の広報誌『MSTC』の受託編集をしていたときに東京都立科学技術大学(現・都立大学)学長の原島文雄先生を取材した(2000 年)。そこでのお話しをいまでも忘れていない。それは1問目の「科学と技術の関係、位置づけは時代と共に変化しているのか?」に対する回答から始まった。
原島:科学をベースに技術が産業を起こした歴史はせいぜい 200 年です。それも急激に伸びたのはこの 50 年でしょう。しかし、人類はギリシア時代から思っていたことをほとんど実現してしまった。今、まさに大きな変革の時代が来たと思います。
農業を考えると、第1次世界大戦後、急激にその位置づけが変わりました。農業の価値は同じでも、工業製品の価値が上がり比率が逆転した。工業も同じことに直面するでしょう。モノづくり社会の次に何が来るか? 工業社会に移ったときに農業は、最近のバイオ産業を興すまで、全く対応が取れなかった。モノづくり社会もこのままではひどいことになるでしょう。次の価値観を見出すのに 70 ~ 80 年はかかるのですから。
モノを作り過ぎたために地球が負荷に耐えられなくなった。環境に負荷をかけないモノづくりを徹底しなければ人類は生き残れなくなる。生き残る、というのは目的ではなくプロセスです。生き残って何をするかが大事な問題なのですから。
環境を維持しながらキッチリ生産が出来たときに人類は一体どういう価値観を持つのか。これまでは価値観なしにモノづくりをやって来た。これからはエネルギーも今のようにジャブジャブ使うことはできないが、生活に困るほどではないでしょうし、食料も例え 100 億人社会になっても均等に配ればなんとかなる。いまの日本のように毎日、大宴会みたいなことをしなければ大丈夫。
汗水流して働くこともなくなっていく。50 年前には、多くの人は体力を売って稼いでいた。現在は頭というか、知識と判断力で生活しています。人類は肉体労働から解放されつつある。次は、精神的苦痛からも解放される社会を作らねばいけない。これがモノづくりに関係があると思う。モノづくりがキチッとして、大きな共通の価値観のもとでモノづくり、IMSなどをやっていければ大変よいのではないでしょうか。
将来のわれわれの生活の中で、モノづくりはどういう価値があるのか。肉体的苦痛からも精神的苦痛からも解放の方向に向かう。そのとき人間は一体何をするのか。将来、われわれはこういう社会を作りたい、との価値観があり、そのコンポーネントとしてモノづくりがあり、政治があり、経済があるのであって、その価値観を持たずにやると、ときどきバブルが弾けたりするのです。(中略)
モノづくりでは環境に負荷を与えないシステムを完成させること、これが第一の問題です。そうでなくては人間が生き残れない。これは大前提です。生き残ったらどうするのか?
知的な生活をしよう。人間の知性を活性化するモノづくりをしたい。まかり間違っても製造業のための知性などとんでもない話です(笑)。われわれ消費者からみるとつくづくそう思うのです(後略)。
その取材は2時間近く続いたのだが、打てば響く明快な回答に心を打たれた。このサイトの「ことラボSTI」の、S(科学)、T(技術)、I(産業)は、この時の取材から生まれた。そして、一国の技術は5年や 10 年で衰えない。製造業が変化することに少し遅れただけだ、と楽観的な分析を承った。それから 20 年以上経過した。この間の変化は、この取材時の射程距離に入っていたのか自問自答している。
私は法学部出身なので工学部の教育は全く受けていない。しかし高校は理系クラスにいて、特に力学は大好きだった。そんな中で以下のような経験をした。
日本に進出してきたスイスの工作機器メーカーの日本法人のT社長は若いが珍しい経歴の持ち主だった。彼は日本の自動車メーカーからスイスに渡りコンサルティング企業に転職した。持ち込まれる案件をグループで検討するとき、その案件の問題点を指摘するときは彼の独壇場だった。しかし、分析作業が進むにつれ彼の出番は徐々になくなり最後はほとんど貢献できないままプロジェクトは終わる。プロセス全体を振り返っても、なぜそうなったか判らない。そこでグループの仲間に彼らの学生時代の教科書を見せてもらった。そこで判ったことがある。
教科書には初めから終わりまで、各章ごとに“もの”についてあらゆることが書いてある。例えば課題が“お鍋”だとする。人類の歴史の中で「いつどこでお鍋が登場したのか」「お鍋の機能はどのようなものか」「お鍋の種類と材料にはどのようなものがあるか」「鍋の作り方」「寿命がきた鍋の自然界への戻し方」という具合だ。次は「時計」だ「ノコギリ」だ、と続く。彼はそれを見て考えた。自分は「機械力学」「材料力学」「熱力学」「流体力学」のいわゆる「四力学」を座学で学び、「実験」の講座で何かを作ったことを思い出した。
話しは変わるが、経営コンサルタントなどで活躍する大前研一氏の話も考えさせられた。彼は総合電機メーカー出身でMIT(マサチューセッツ工科大学)に留学して原発の研究をしていた。あるときテストがあり質問は2題だった。時間が来て答案用紙を提出すると彼は1問目を終えて2問目の途中だったがゼミの仲間は1問目の途中までで回答にたどり着いていなかった。ところが採点された答案を見て驚愕した。なんと1問目の答えがあっていた彼は、回答までたどり着かなかった同級生の中で一番成績が悪かった。当然、教授に抗議した。「私は1問目を正解に至っている」と。しかし教授の回答は「数字が合っていたのはのはたまたまだ。考えるプロセスがまるで間違っている。君のようなものが原発を設計したら地球は破滅だ」と。彼は衝撃を受け自分の受けてきた教育とは何だったのか、とコンサルティングの世界に進んだ、という。
私はT社長に大前氏の話を伝えると「お~お。その仲間の一人がMIT時代に大前さんと寮で同室だった」と驚くようなことを言われた。
「工学教育がピンチだ」と多くの先生方は心配されているが、旧来のカリキュラムを見直す必要もあるのではないか。NC装置が登場して、複雑形状の加工や同じ形状の繰り返し切削加工がNC化され、それまでの職人技で加工されていた金属加工がコンピュータで加工されるようになった。複雑な形状もコンピュータ制御で可能になった。その前提としてCAD/CAMが使いやすくなった。するとエンジニアは、3次元CAD/CAMでいきなり形状設計に入っていく。その結果、従来の三面図から立体形状を思い描く能力が身に付かなくなった。「これではダメだと」ある工作機械メーカーの社長は、客先で眠っていた古い工作機械を引き取り、それを新入社員に渡し、ばらして部品1点ずつをスケッチして三面図を起すことに取り組んだ。この話を「工学部の劣化」を心配している方に話すと「それだ」と喜んでいたが、残念ながらそれを推進していた社長は亡くなり企業もグループ会社に吸収されてしまった。
金属加工の世界がドンドン変化していく中で、その変化についていけない人々が増えている。しかし「努力と工夫」を発揮して道を切り開くのは今だ。昨年は日工会のセミナーで「研削加工の見える化」に挑戦している先生たちを紹介した(2024 年4月 17 日「テクニカルインフォメーション“研削加工の見える化”」)。IT技術の効果的な利用で工学教育のリセットが進むことを期待する。