岩波徹の視点
社会の劣化を横目に見て
以前も「社会の劣化」を危惧して、NHKは“視聴率”など気にせずにしっかりした番組を作れ、と書いた。ちなみに大河ドラマ「光る君へ」の視聴率が低いと騒いでいるようだが、あのドラマを見て平安時代の社会の一端を垣間見たと思っている。視聴率を気にする民放には作れないドラマだ。
「社会の劣化」を考えるときに“メディアの劣化”は判り易いテーマだが、ここでは取り上げない。問題なのは「納得しがたし、されど論破しがたし」という世界のことだ。
高校生の時は物理(力学)と数学(論理学)が好きだったのでその道に進みたかった。しかし公式を暗記したり細かい計算をミスなくするのは苦手だった。進路の決まらないまま、卒業して母校のハンドボール部が潰れそうだと言われて、運動不足解消を兼ねて出かけて行った。当時は文部省と日教組が争っていて、教師の負担軽減でクラブ活動はOBに世話をさせようとする動きがあった。好きなことをやって金になるのか、とのんびり考えていたら同期のバレー部のOBが「馬鹿言うな。同時に責任が問われるぞ。それが始まるかどうかに関係なく、部員の血液型と血圧と心電図だけは撮っておけ」と言われた。彼は医学部に行ったが立派な医師になった。60年安保では「アンコ反対、ジャム賛成」などと騒ぐ幼稚な私は、世の中は、そうした制度や考え方で成り立っていることに気がつき、法学部に行こう、と進路を大転換した。論理学志向だったから、法学の勉強は面白かった。特に当時“天下の悪法”と呼ばれた「会社更生法」(現民事再生法)に嵌まった。経営破綻した企業を潰してしまうのか、債権者を泣かせても救うのか? 教授は司法試験の試験官で授業は米国式の“ケースメソッド”というハードな講義だった。実際の事件の一審、控訴審、上告審(最高裁)の判決文を全部読んで自説をもって講義に臨まないと叩かれる。しかし司法試験には受からなかった。当時お世話になっていた弁護士の先生から「君は考え過ぎるから試験は受からない。あれは暗記する試験だ」と言われて断念した。
さて法律を学んで、いまの社会を見ると「納得しがたし、されど論破しがたし」という現象が次々に出てくる。この言葉は法律を学んでいた時の呪文のような言葉だ。例えば“冤罪”が起きるのは、近代以前の“岡っ引き根性”からだ。法律的には誤りはないのだが、結論には納得できない。しかし論破もできない。大河原化工機事件では、金星を上げたかった公安が暴走したらしい。「法律的には問題はなかった」とぬけぬけという。終戦直後に山口県でおきた“八海事件”は、現場をみた刑事が「これは単独犯ではない」と思い込み、単独犯だった真犯人に強引に自白させて無罪の仲間を逮捕させた。一家が突然消えた静岡県の事件では、警察は一家の死体が埋められた河岸の砂浜を発見していながら、町の知恵遅れの青年を逮捕、かれの自供により一家を発見した、と新聞社まで巻き込んだが、近所の人がその前日に警察が遺体を発見していたことを証言して、その青年は助かった。
戦前は、警察・検察と裁判所は同じ建屋にいた。お奉行様と与力・岡っ引きが同じ組織で、捕まえる方と裁くほうが同じメシを食っている。政治家は選挙というテストがあるが、刑事にも検事にもテストはない(最高裁判事は形だけのテストはあるが)。出世を希望して冤罪を仕組んでも、仲間を売ることはできない、という世界である。「法匪」という言葉がある。法律を悪用して自分の利を図る輩をいうが、いま日本にどれだけの法匪がいるのか、考えて欲しい。