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ー 科学と技術で産業を考える ー

ことラボ・コンテンツ

岩波徹の視点

ハイテンション社会とエキサイト社会

2024 年 09 月 18 日

 「ことラボSTI」を立ち上げたとき著名な先生から「もう少しテンションを挙げたほうがいいのでは」と言われた。直後に「あっ、いや、それは持ち味だから」と訂正されたが貴重なアドバイスをいただいた。それを契機に社会を取り巻く「テンション」について考えている。

 嬉しいとき楽しいときは、その喜びを身体一杯で表現することに異論はない。パリ五輪で活躍したすべての選手たちには惜しみない拍手を送るが、興奮しているテレビ・キャスターを見ると違和感を持つし「感動」を強要されるのは不愉快だ。メディアの興奮は今始まったことではない。個人的に最初に経験したのは、1972 年に札幌で開催された冬季五輪のスキージャンプの 70 m級(現ノーマルヒル)で、金銀銅全てを日本選手が独占し“日の丸飛行隊”ともてはやされたとき。競技は後半に入り、まだ続いているのに下位の選手がスタート台に立つと、興奮したアナウンサーは「もうこの人は関係ありません」ととんでもないことを言いだした。一人や二人ではなかった。さすがに「それはないだろう」と思ったし、たしか翌日の新聞に批判記事も載っていた。
 こうした興奮状態に陥っているときに醒めた対応をすると仲間でないと思われる。そして五輪で国内がハイテンションになっているときに、一緒にテンションを上げましょう、とメディアが迫ってくる。そして“感動の押し付け”が始まる。私は 1984 年にデータ処理会社で、FA業界のデータベースを構築する、というプロジェクトに参加したことからFA業界とかかわりをもった。日本の工作機械産業は 1982 年から 2008 年までの 27 年間、工作機械生産額世界一だったが、当時の工作機械業界は「世界一」であることでハイテンションだった。
 さて欧州では二度の世界大戦から欧州から国境をなくそうと統一に向けた作業を続けておりEU実現に向けたプログラムが進んでいた。そして日本市場に向けた“Gateway to Japan”プログラムがスタートした。そしてとくに熱心だったイタリアから招待された。招いてくれたのは「観光で生きるのはやめてこれから製造業で生きていく」と宣言したイタリアUCIMU(工作機械・ロボット・自動化工業会)だった。欧州は初体験だった。翌年 1995 年に開催されるミラノEMOのキャンペーンも含めた招待だった。その後このプログラムは 2000 年まで5回続いたが、日本市場開拓には効果が薄く、2002 年からはメディアだけになってしまった。
 1994 年に初めて取材したBI-MU(“2年に一度の工作機械”の意)展は工作機械展だしJIMTOFのイタリア版くらいの認識だったが、かなり異なっていた。このひと月後に大阪で開催されたJIMTOF1994 と比較したレポートを書いたが、多様性に関してはイタリアの勝ちだ。記憶は正確ではないが、BI-MUの出展者は 1000 社以上、大阪JIMTOFは 700 社未満で、NC旋盤とMCの出展者数はBI-MUは 10 社前後でJIMTOFでは 30 社前後。その頃は猫も杓子もMCを作り「MCを作っていないのは工作機械メーカーではない」という人もいたほどだ。だがイタリアでは流行を追いかけるよりも“我が道を行く”スタイルが多く、落ち着いた展示会だった。
 BI-MU展で驚いたのは家族連れが多かったこと。父親と息子は小間の奥の機械の前で、メーカーと話し込んでいるが、母親と娘は通路に出て話が終わるのを待っている。展示場のメイン通路では若い男女が腕を組みキスしながら歩いている。二人の隙を狙うかのようにスリと思しき若い女が後をつけるが、その後ろを警察官がつけている。「なんだこれは」と驚きの連続だった。出展者の中には蛇口やバルブなどの水回り商品を展示している企業もあった。つまりメーカーもユーザーも参加している。イタリアを旅行して、ホテルの水回りに苦戦したり感心したり人は多いのではないか? あるホテルではバスタブの栓を締める仕組みが判らずに、やっと帰国前夜に湯を張ることができた。
 イタリアでの経験で「ものの作り方はいろいろある。日本が得意なのは良いものを速く、安く、大量に、切削加工で作ること。イタリアでは意匠に拘り、切削だけでなく成形加工も含めて、楽しんで仕事をする」という結論がでた。テンションを上げろ、とかエキサイトしろとか、人の内面に迫ってくる無礼なことはあまりない。
 「人の内面」といえばこのとき貴重な体験をした。2日目の夕方だったと思うが、招待した海外のプレスを招待した食事会があった。会場は著名なホテルの宴会場で、招待客2人に対して一人のUCIMUスタッフがアテンドしており 100 名近い規模だった。私の隣は初老のフランスから来た女性ジャーナリストだった。私が日本人と判ったとたんに攻撃的になった。「フランスは日本人が思っているような農業国ではない」から始まってフランスの工業力をまくしたてる。アーリアンロケットやTGV(新幹線)などをまくしたてる。私は中学生のときからファンだったフレンチポップスの歌手や「若い頃にパリで暮らした者には生涯パリが付いて回る」といったヘミングウェイの言葉で応戦した。ところがコース料理でシーフドパスタが出たとたんに彼女は怒りだした。「私はユダヤ教徒ヨ。ユダヤ教徒はシーフードを食べないことをあなたも知っているでしょ」と私にも共感を求めてきた。右隣のUCIMU職員は平謝りである。只飯を食っていて何と罰当たりなんだ。だいたいペテロだかパウロは漁師だったろ、と的外れなことを考えていると、ホテルが繋ぎに持ってきたボールに入っているサラダを手づかみで食べ始めた。フランスの女は強い、と変に納得した。この話を、帰路に寄ったデュセルドルフにいる日本人に話すと、彼は「当たり前だ、それはUCIMUが悪い。こっちで人に食事を奢るときには、相手の宗教を無視した料理を出せば喧嘩になる」という。
 落ちついた大人の街に見えたミラノには宗教や社会を構成する、外国人には判らないルールに合わせないと生きていけない。社会を生き抜くための規制が緩い日本では、メディアが必要以上に緊張や興奮を仕掛けてくる。そうした緊張感の薄い社会だからなのか、メディアが必要以上に社会を仕切ろうとしているように見える。