岩波徹の視点
日本に足りない「公共性」の機能
私たちが生活している社会は、国家や学校のような「公」の部分と、個人に関わる「私」の部分があります。しかし社会は「公」「私」だけでは成り立ちません。「公」と「私」の間に「公共」という世界が存在しています。社会がスムースに回転していくためには、この「公共」の部分が大事ですが、これが国ごとに異なり、社会の仕組みを理解するうえで大切ですが複雑です。
しかしこれを考えることが、日本の産業界の現状を考えるうえでひとつのヒントになると、と思えるので続けます。
公共性の違いを知る良い例があります。1990年代初頭にアフリカで大飢饉が起きました。それを救おうと英国と米国それぞれに“African Aid”と呼ばれるミュージシャンが中心となった救済の大イベントが開かれました。米国ではマイケル・ジャクソンやライオネル・リッチーが作曲した“We are the World”を米国の代表的な歌手たちがノー・ギャラで歌い、CDの売上は全て寄付されました。その時の物語が、NHK番組「アナザーストーリーズ 運命の分岐点」で放送されました。
発起人は米国音楽業界のレジェンドであるハリー・ベラフォンテでした。取材中のNHK記者にアフリカから来た女性が「日本でも大災害(東日本大震災)があったけど、アーティストたちは救済イベントをやったのか」と詰問しましたが彼の回答は曖昧でした。
社会的に高い地位を取得した“レジェンド”達にはノーブレス・オブリージュ(高貴なる義務)があるから、アフリカの飢餓に助けの手を差し伸べなければならない、と英米のスターたちは動き出した。災害時の救援物資を、ちゃんと並んで受け取る日本人に世界が驚いていたことを考えると、日本人の公共性が低いとは思えない。何が違うのか? それは“受動的立場”か“能動的立場”か、だと思う。能動的に動くと「出る杭は打たれる」「出しゃばる」となって前進しないのが日本の社会です。
私はいま“ばら撒き”と批判がある「補助金行政」に警鐘を鳴らしています。何もしないよりは良いのですが「米を作らないならお金をあげる」と馬鹿げた農政「減反政策」を思い出します。補助金は、減反政策よりは中身があるように思いますが、所詮は“死に金”です。しかしいまの「受動的公共社会」では、お金をばら撒いて終わりです。産業の将来展望を期待できる使い方は「積極的公共性」の仕組みを作らないとできないのではないか。
問題は大きいので次回に継続して考えます。