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ー 科学と技術で産業を考える ー

ことラボ・コンテンツ

岩波徹の視点

朝ドラと転職サイト

2026 年 06 月 17 日

 104 歳という天寿を全うした私の母は、瀬戸内海が目の前に広がる大分県国東半島で人生の前半を過ごした。海産物をたっぷり摂って育った大柄な彼女は、50 歳代になっても近所の夫人たちからは 30 代に見えると誉められていた。しかし 50 代に入って間もなく、妹と電話中に「胸が苦しい」と救急搬送された。たまたま自宅にいた私が付き添っていくと、診察室から「血圧が 260 もある。こんなになるまで何をしていたんだ」と叱責する医師の声が聞こえてきた。母はそこでひと月あまり入院したのだがその間、みるみる老化して歳相応の容貌に変化していった。
 しかし陽気な母はそんな環境でも楽しそうで、見舞いにいった私は拍子抜けしていた。あるとき私が見舞いに行っていたとき、アルバイトの青年が部屋の掃除に入ってきた。すると母は私との会話を打ち切り、彼にいろいろと話しかける。ずいぶん親しげだ。あれこれ質問が飛び青年も楽しそうに返事をする。室内の清掃が終わり、彼が出ていくと母は「初めのころはササっと終わらせて出て行っちゃうの。もっとキレイにしてほしいから話しかけているうちに丁寧に掃除をしてくれるようになった」と得意げだった。
 個人的なことだが私の家内は、悪性リンパ腫を患ってから 14 年後に“未分化多型肉腫”に転移した。悪性リンパ種の原因腫が腰にあり、そこから肉腫に変化した。手術は背筋のほとんどを切除するという非常識な、医者には意味があるだろうが患者には希望の持てない手術をされてしまった。その結果は最悪で、7か月後に亡くなるまで、彼女は筆舌に尽くしがたい苦痛と戦うことになった。手術後の病室を訪れる看護師さんに、母から教えられた「病院の人と、なるべく親しくする」という処世術を実践した。すると非情にテキパキと処理する看護師の女性から衝撃的なことを教えられた。「看護学校に入学すると何割かの学生は入学して間もなく退学する。そして卒業して実務についてからもまた何割かが退職する」と。あまりあれこれ“取材”したためか、彼女は二度と病室には来なくなった。しかしこの話から看護という仕事の厳しさを知った。今も忘れられない。いまNHKの“朝ドラ”でやっている『風、薫る』では。日本初のナースたちの物語だ。
 全寮制の教育体制で、日本で初めての取り組みだ。担当した患者が亡くなった。担当看護婦だった華族の子女が「担当した患者が亡くなるのは耐えられない」と退学していった。私が聞いていた話と重なる。明治維新以前では、病人の世話をするのは“卑しい仕事”とされていたことに驚いたが、身分制下の社会ではそのような価値判断があったのだろう。メディアを囲む業界雀たちは、この朝ドラが始まったころは、いろいろと難癖をつけていたが、私は社会科の授業のつもりで見ている。
 さて現在さまざまなメディアで“転職サイト”のPRが流れている。いったい何社が取り組んでいるのだろう。それほど潜在ニーズがあるのだろうか?そして転職が“恥ずかしいこと”と思っているのか、二人の俳優がささやきながら転職を勧めているものもある。転職は良くないこと、恥ずかしいこと、が前提になっているのか?
転職は恥ずかしいことなのか?自分が担当した患者が死んで、看護という仕事は“死”と向き合うことだ、と改めて思い知らされた“看護婦見習い”は、恥ずかしいとは思っていなかっただろう。転職サイトをみて心動かされている人に申し上げたい。
いま社会で働いている人々の中で何割の人が自分の希望した職場で働いている、と思いますか?子供の頃からあこがれていた職業に就いている人は幸せだ。私がいまの仕事を“天職”だと思ったのはつい最近で、この環境になったのはほんの6年前。考え方が変わったからだ。皆さんの転職の動機には、いろいろな事情があると思うが私の経験から分析してみる。
 「仕事」そのもの、「職場環境」、「仕事の将来性」などなど仕事を評価するファクターは多岐にわたるだろう。嫌なことから離れるために転職するなら拙速だと思う。転職したくなる環境を仕分けしてみよう。
人間関係特に上司との関係:これは厳しい問題だ。「お前のことが嫌いだ」という、個人の努力では何ともならない状況だ。まずこの状況から考えてみよう。
 私は高校を卒業してから「何をするべきか」の答えが見つからず、本屋の小僧をやったり日雇いアルバイトに身をやつしたりしていた。そして母校のハンドボール部が潰れそうだ、という情報に接してコーチになった。すると試合に行ったりする軍資金が必要で、町にある一番大きなレストランでウエイターのアルバイトを始めた。するとその世界はクソまじめな高卒が敵わない裏の世界だった。当然、私は疎んじられたが、その世界では珍しく“生真面目”で押し通した。すると仲間の中から味方になってくれる人が出てきた。一番仕事ができるプロだった。彼の夢は帝国ホテルのレストラン・フロワで働くことでフランス語も勉強していた。しかしNo2の先輩とはうまくいかなかった。しかしある時、店内の宴会場にある音響設備の中でその先輩のものと思われる顔写真のあるレコード盤(45 rpmのプラスティック盤に音楽を刻み付けたもの)を見つけた。彼はデビューしたけど売れなかった歌手だった。あるときその彼が、店の裏で鼻歌を歌っていたので「いい声ですね」と声をかけた。とてもご機嫌になった。仕事が終わり二人きりになったとき「一杯やろう」となり、彼のこれまでの苦労の経験を聞くことになった。彼の思いを知ると「手を抜くずるい人」という反発はなくなった。職場の人間関係に悩んだら、とにかく相手のことを知ることだ。意外に仲よくなれるかもしれない。
 これは個人的レベルの問題だから“努力”が届く範囲だと思う。大変なのは“組織に問題”がある場合だ。しかし、その段階になれば組織の外部に人脈ができているはずだ。組織は外部環境に支えられて存在しているから個人レベルの問題より複雑になっている。君が組織にとって重要な存在になっていれば、内部の人間関係にかかわりなくあなたは重要な人だ。その人脈の“強さ”が大事だが、外部からの支援があれば今の環境の中に、強くはないかもしれないが味方がいると思うべきだ。会社という組織の問題なのか?その時は組織のトップ(直属の上司、組織のトップ:部長、社長)に率直に思いを伝えるべきだ。それができなければ次の職場に移っても先はない。
“廊下トンビ”という言葉がある。社内を飛び回って根回しをする人だ。情報処理会社にいたとき、株式上場企業の株主名簿管理業務を請け負っていた。呼ばれて入社したその会社は、社長夫妻と奥さんの弟たちで回っていた。社内をまとめなければならない業務部長がまるで社員の心情に疎い人で、就業間際に突然、残業を言い出す人だ。人心は離れ、その修復に呼ばれた。
 まず仕事の総量を知るために営業部隊に、仕掛案件を報告させ、データ作成を始めるタイミングを全員で情報共有した。社内の大半の了解を得ると、社長夫人の弟は職を外され私が後任に就いた。しかしその先に大きな落とし穴が待っていた。最後の詰めで発注元との呼吸が合わない。そこで前任者とともに発注元に行くと、客先のスタッフの多くが彼との再会を喜んでいた。私は、彼を追いやった“悪人”だった。仕事の進め方では問題なく処理していたハズだったが、人間関係では思いこみで進めていたことに気が付かなかった。仕事をこなすというのは、仕事を前進させるだけでなく、周りでかかわっている全ての人々とともに前進することだ、とあとで知った。それからは“廊下トンビ”を心掛け、社内営業に努めていった。
 しかし仕事に興味が湧かない、というのは困ったものだ。なぜその職に就いたのか?そういう人にこそ申し上げたい。その職場から求められているのは何か?課題を解決する力か?職場を明るくするキャラクターか?真面目に仕事に取り組む姿勢か?目前の仕事ではなく組織全体を視野に入れて欲しい。私は本社から遠く離れた支社で採用され、個人的な経歴を注目した本社にいる創業者が「1年間様子を見て使い物になりそうなら本社に寄越せ」との暗黙の指示があったらしい。すると、支社で好き勝手やっていた支社長は、創業者に自分の不行跡を告げ口されることを恐れ、少しでも早く私をやめさせようと、今では考えられない陰湿な苛めを仕掛けてきた。いまでいうブラック企業だったが子供が生まれたばかりで、1年は我慢しようと頑張った。本社でもその雰囲気を感じ取って、あれこれと支援してくれた。1年後にもう馬鹿らしくなり辞めようと思ったときに「本社に転勤」の打診を受けた。いまの仕事で苦しんでいる人も、そのバックグランドに思いをいたせば違う景色が現れるかもしれない。
 さらに社外の組織や人脈を活用する方法もある。私の経験では経産省の外郭団体、経産省そのもの、学会の先生方、イタリアをはじめとした在日公館の人々など、社内の馬鹿らしい嫌がらせなど全く気にならないくらい充実していた。工作機械業界の重鎮から「君はイタリアの回し者だから」と言われたことがあるが、それは誉め言葉だと思っている。
 会社という組織は、一人の社員の不手際で潰れるような柔な組織ではない。それを利用するくらいの精神で向き合ってほしい。転職するのは、やるだけのことをやってから考えても遅くはないゾ。思春期に人生についていろいろ悩んでいたころ、先人の名言や格言を集めた本をよく読んだ。その中でいまでも心に大きな存在感を占めている言葉がある。
 「人生には幸も不幸もない。考え方次第でどうにでもなるものだ」
 どうだろうか?